2019年11月6日水曜日

2019年11月6日(エゼキエル書13〜14)

今日の通読箇所:ヨハネによる福音書11:17~44エゼキエル書13~14

エゼキエル書13~14;
主の言葉が私に臨んだ。「人の子よ、ある国が私に背信を行って罪を犯すなら、私はその国に手を伸ばし、パンの蓄えを絶ち、飢饉をもたらし、そこから人と家畜を絶ち滅ぼす。たとえ、その中に、あの三人の人物、ノア、ダニエル、ヨブがいたとしても、彼らがその義によって救えるのは自分の命だけであるーー主なる神の仰せ」(14:12~14)。
神の裁きが語られています。厳しい裁きです。そこに、三人の人物が登場しています。ノア、ダニエル、ヨブ。ノアとヨブについては、聖書は同じ評価をしています。「ノアの歴史は次のとおりである。その時代の中で、ノアは正しく、かつ全き人であった」(創6:9)。「ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は完全で、正しく、神を畏れ、悪を遠ざけていた」(ヨブ記1:1)。二人とも、正しい人、無垢な人でした。ダニエルについてはこのエゼキエル書の次に読むことになっていますが、この人も困難な状況下で神に従い通した人、信仰者として生き抜いた人として描かれています。つまり、ここに登場する三人は、信仰者として生き抜いた人、神の御心に適った人たちである、と言うことができると思います。
しかし、例えこの民の中に彼ら三人がいたとしても、これから神が下そうとしている裁きを免れさせることはできない、彼らの信仰は彼ら自身を救うことができるだけだ、と言われます。しかも、この章で、繰り返し、何度もそのように言われています。
もしかしたら、これはソドムとゴモラを前にしたアブラハムの祈りへの一つの答えなのかも知れません。「わが主よ、もう一度だけ申し上げても、どうかお怒りになりませんように。もしかすると、そこには十人しかいないかも知れません」(創18:32)。アブラハムは、ソドムの罪を裁こうとする主なる神様に対し、その町を執り成そうと必死の祈りをします。しかし結局、その町は滅ぼされてしまいました。神様は「その十人のために、私は滅ぼさない」と言ってくださいましたが、最終的には滅んでしまった。正しい人は、たったの十人もいなかったのです。
例えノア、ヨブ、ダニエルがいたとしても、この裁きはなしにはならない。神はそう言われます。人間の信仰は、例えそれがノア、ヨブ、ダニエルのものであったとしても、せいぜい自分一人を救えるだけすぎません。まして私たちの信仰など・・・。ところが、神は、私たちのあり方にはかかわらず、ご自身から救いの手を伸ばしてくださいました。キリストというたった一人の正しい方、無垢でまったきお方を遣わして、この方の真実によって私たちを救ってくださったのです。ここに救いがあります。ここに、私たちを救う神のご意志が進められています。だから、私たちは、私たちを救ってくださったキリストを信じているのです。

2025年1月16日の聖句

人間の高ぶる目は低くされ、人の高慢は卑しめられる。 その日には、主のみが高くされる。(イザヤ2:11) 神は知恵ある者を恥じ入らせるために、世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、世の弱い者を選ばれました。また、神は世の取るに足りない者や軽んじられている者を選ばれました。...