今日の通読箇所:ヨハネによる福音書11:45~57、エゼキエル書15~16
エゼキエル書15~16;
神はエゼキエルに向かって、「人の子よ、ぶどうの木は、森の中の枝のある木に比べてどこが優れているだろうか」(15:1)|と問うておられます。ぶどうの木は他の木のように薪にもならず、木材にもならない。ぶどうの木の価値は、実を結ぶことです。実を結ばないぶどうの木など、無用の長物です。イスラエルの民は、今、私にとってそのようなものではないか、というのが神様の問いかけです。
どうして実を結ばないぶどうの木などと言われてしまうのか。それが、第16章の語ることです。ここではイスラエル他の民がある一人の若い娘に譬えられています。彼女の出自は、捨て子でした。「あなたの生まれた日に、あなたは嫌われ、野の面に捨てられていた。私は傍らを通りかかり、地の中でもがいているあなたを見て、血まみれのあなたに、『生きよ』と言った」(16:6)。神が血まみれのままで捨てられた娘を見て、「生きよ」と言ってくださって、衣服を着せ食べ物を与え、目をかけ、世話をし、愛情を注いで育ててくださった。娘は美しく成長しました。
「ところが、あなたは自分の美しさに頼り、自分の名声のゆえに淫らな行いをした。通りかかる誰とでも淫行をし、その人のものとなった。自分の衣服を取って、自分のためにきらびやかな高き所を造り、その上で淫行にふけった。このようなことはかつてなく、またこれからもあってはならないことである」(15~16節)。ここで言っている「淫行」というのは、偶像礼拝のことです。神ならぬものにひれ伏し、忠誠を誓い、伏し拝んで生きていることは、神様との関わりを考えると、妻が夫に対して姦淫の罪を犯しているのと同じだ、と言われるのです。
この裏切りは、血まみれの時に「生きよ」と言ってくださり、生きるため成長するために必要なすべてのものや愛を与え尽くしてくださった方への裏切りです。私たちが神ならぬものを神であるかのように拝むことは、神様への姦淫の罪です。だから、実らせるはずの実を結ばない、役に立たないぶどうの木だ、と言われるのです。
このように私たちの罪を鋭く指摘する御言葉は、読んでいて、耳も心も痛めつけるような言葉です。しかし、この御言葉から教えられることは、神様はその何倍も傷ついておられるという事実です。神様は、私たちのために傷ついておられます。罪というのは、神様を傷つけることです。裏切って、神様に恥をかかせ、その愛を踏みにじった。それが、私たちと神との関係です。それにもかかわらず、神が手を伸ばしてくださっている。聖書が語る福音は、まことに、驚くべきニュースです。
エゼキエル書15~16;
神はエゼキエルに向かって、「人の子よ、ぶどうの木は、森の中の枝のある木に比べてどこが優れているだろうか」(15:1)|と問うておられます。ぶどうの木は他の木のように薪にもならず、木材にもならない。ぶどうの木の価値は、実を結ぶことです。実を結ばないぶどうの木など、無用の長物です。イスラエルの民は、今、私にとってそのようなものではないか、というのが神様の問いかけです。
どうして実を結ばないぶどうの木などと言われてしまうのか。それが、第16章の語ることです。ここではイスラエル他の民がある一人の若い娘に譬えられています。彼女の出自は、捨て子でした。「あなたの生まれた日に、あなたは嫌われ、野の面に捨てられていた。私は傍らを通りかかり、地の中でもがいているあなたを見て、血まみれのあなたに、『生きよ』と言った」(16:6)。神が血まみれのままで捨てられた娘を見て、「生きよ」と言ってくださって、衣服を着せ食べ物を与え、目をかけ、世話をし、愛情を注いで育ててくださった。娘は美しく成長しました。
「ところが、あなたは自分の美しさに頼り、自分の名声のゆえに淫らな行いをした。通りかかる誰とでも淫行をし、その人のものとなった。自分の衣服を取って、自分のためにきらびやかな高き所を造り、その上で淫行にふけった。このようなことはかつてなく、またこれからもあってはならないことである」(15~16節)。ここで言っている「淫行」というのは、偶像礼拝のことです。神ならぬものにひれ伏し、忠誠を誓い、伏し拝んで生きていることは、神様との関わりを考えると、妻が夫に対して姦淫の罪を犯しているのと同じだ、と言われるのです。
この裏切りは、血まみれの時に「生きよ」と言ってくださり、生きるため成長するために必要なすべてのものや愛を与え尽くしてくださった方への裏切りです。私たちが神ならぬものを神であるかのように拝むことは、神様への姦淫の罪です。だから、実らせるはずの実を結ばない、役に立たないぶどうの木だ、と言われるのです。
このように私たちの罪を鋭く指摘する御言葉は、読んでいて、耳も心も痛めつけるような言葉です。しかし、この御言葉から教えられることは、神様はその何倍も傷ついておられるという事実です。神様は、私たちのために傷ついておられます。罪というのは、神様を傷つけることです。裏切って、神様に恥をかかせ、その愛を踏みにじった。それが、私たちと神との関係です。それにもかかわらず、神が手を伸ばしてくださっている。聖書が語る福音は、まことに、驚くべきニュースです。