2019年11月8日金曜日

2019年11月8日(エゼキエル書17〜18)

今日の通読箇所:ヨハネによる福音書12:1~19、エゼキエル書17~18

エゼキエル書17~18;
それゆえ、イスラエルの家よ。私はあなたがたをそれぞれの道に従って裁くーー主なる神の仰せ。立ち帰れ。すべての背きから立ち帰れ。そうすれば過ちはあなたがたのつまずきとはならない。あなたがたが私に対して行ったすべての背きを投げ捨て、自ら新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どおうしてあなたがたは死のうとするのか。私は誰の死をも喜ばない。立ち帰って、生きよーー主なる神の仰せ。(18:30~32)

この章で言われていることは、驚くべき事柄であると思います。「私はあなたがたをそれぞれの道に従って裁く」と言います。それぞれの道、です。「罪を犯した者は、その者が死ぬ」と言われているとおり、父の罪を子が償わなければならないのではなく、逆に父の功徳によって子が救われるのでもありません。「それぞれの道に従って裁く」というのです。
私は、とても近代的な個が確立された言葉だとさえ思いました。今から2500年以上前の言葉とは思えません。しかし、神の前で、人間は一人の人間になるということなのでしょう。それに時代は関係ないのだと思います。
最近の日本では「誤った個人主義」とか「行きすぎた個人主義」という言葉が流行して、個人主義が戦後の混乱の根源であるかのように言われますが、それは誤りだと私は思います。むしろ日本にはまだ個人主義は根付いていないと私は見ています。個は、神の前にでるとき、本当に確立されるのではないでしょうか。神の前で、私たち一人一人の生き方が、責任的に問われるのです。
そうであるからこそ、その責任を取り得ていない自分の罪にも目を向けねばなりません。人を抑圧せず、偶像を仰ぎ見ず、貧しい者の生きる道を守り、・・・そのようにして神に従っているのか、あるいは自分の欲望のままにそれを蔑ろにしているのか。神の前に一人立つこの私に、神は問うておられるのではないでしょうか。神様は、「私は誰の死をも喜ばない」と私たちに呼びかけています。「立ち帰って、生きよ」、これが神様から私たちへの呼び声です。

2025年1月16日の聖句

人間の高ぶる目は低くされ、人の高慢は卑しめられる。 その日には、主のみが高くされる。(イザヤ2:11) 神は知恵ある者を恥じ入らせるために、世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、世の弱い者を選ばれました。また、神は世の取るに足りない者や軽んじられている者を選ばれました。...