2019年12月29日日曜日

ヨハネによる福音書第1章43から51節「Come and See!」


 ナタナエル。この人が、今朝の聖書の御言葉では主役を演じています。彼はとても求道心が強い人であったと思います。そんな彼の思いを、主イエスが見いだしてくださいました。主イエスはナタナエルを見つめて言われます。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」まことのイスラエル人。ナショナリティの話をしているわけではありません。イスラエルという言葉はこの福音書では独特の意味を持ちます。ここでは、まことの神の民の一員だといった意味合いです。この人は神を求める神の民の一員だ。更に、主イエスは彼がいちじくの木の下にいるのを見たのだ、とも言います。当時いちじくの木の下というのは、ラビに教えを請うたり、祈ったりする場所であったようです。今で言ったら、礼拝に来ているのを見ていたよ、家庭集会に来ているのを見ていたよ、といったようなことでしょうか。神を求めたり、悲しみや苦しみからの解放を求めたり、そうやって救いを求めるあなたを私は知っている、と主はナタナエルに言ってくださったのです。
 ナタナエルは主イエスを知って、すぐにすんなりと信じられたわけではありませんでした。友人のフィリポが一足早くイエスに出会った。彼は、聖書が約束している方に出会った、それはナザレのイエスだとナタナエルに話します。ついさっきであったあのイエスこそ、私たちの罪を取り除く神の小羊だと告げた。しかし、ナタナエルはフィリポの話しについて行けませんでした。第一、メシアが現れるとしたら、ナザレからなんて考えられない。ナザレなんて、旧約聖書には一度も登場したことがないのです。ナタナエルは熱心に求道し、聖書の勉強もしていたのでしょう。わたしが求め、信じ、神に願い続けてきた救い主はナザレから来るはずがない。イエスなんて信じることはできない。ナタナエルはそう思い込んでいました。
 私はこの話を読んで、マルティン・ブーバーの『我と汝』という本を思い出していました。私たちの世界は二つの根源語で表される。「我と汝」、そして「我とそれ」。「我とそれ」というのは、自分にとって相手は対象であり、目的である。食べるために、作物を作る。その作物との関係です。我−それの関わりでは、相手は自分が処理することのできる対象物になります。しかし、「我と汝」の関係はそうではなく、汝は対象ではなく、生きた人格関係であり、出会う相手です。そして、「我とそれ」の私と「我と汝」の私は、同じ私でも相手とので相方によって違う私になる。
 ナタナエルは、救い主はこうであるはずだという思い込みがあって、主イエスと出会い損ねそうになります。しかし、フィリポが言うのです。「来て、見なさい」と。イエスがあなたと出会おうとしているから、来てごらん、見てごらん、と招きます。私たちにも、神さまに対するいろいろなニーズや、願いがある。主イエスはそういうものをじっと見つめて、私たちの求道心を受けとめてくださいます。しかし、私たちにとっては、そこにうずくまっているだけでは救いにならないのではないでしょうか。私たちの願いを超えた救いがなければ、私たちは自分のニーズという呪縛から救われない。
 主はナタナエルに、私があなたを知っていたこと以上に偉大なことを見ると言われます。主イエスの上に天が開けるのを見ることになる。十字架の主によって、私の願いを超えた救いと出会うのです。

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...