2019年12月29日日曜日

2019年12月29日(ゼカリヤ書12〜14)

今日の通読箇所:ヨハネによる福音書1:1~18、ゼカリヤ書12~14

ゼカリヤ書12~14;
「それはただ一日であり、主に知られている。昼もなければ、夜もない。夕暮れ時になっても、光がある。その日になると、エルサレムから命の水が流れ出て、その半分は東の海に、他の半分は西の海に流れ、夏も冬も流れ続ける。主はすべての地の王となられる。その日には、主はただひとり、その名もただ一つとなる」(14:7~9)。
その日は、裁きの日であり、救いの日でもあります。すべての肉なるものへの神の裁きの日であり、主が地の王として、光と命の水をもって救ってくださる日でもあります。私たちの罪が裁かれることがなければ、私たちは救われようがありません。しかし主が私たちの罪を許してくださるのでなければ、なおのこと私たちは救われることがないのです。
この預言者は、この世界の様相をつぶさに見、それに絶望していたのだと思います。神に逆らい、弱い者を虐げ、隣人を足蹴にする私たちの罪が、まるで病気のように私たちを蝕んでいる。それなのに、それがあたかも正しく、居心地の良い場所であるかのように、私たちは安穏としている。そのような私たちに、この預言者は絶望していたのではないかと思います。
しかし、彼は絶望はしても諦めてはいませんでした。夕暮れ時になってもなお光があると言うことができました。私たちをこの絶望的な罪から救ってくださるお方を信じていたからです。
「私はダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが刺し貫いた者のことで私を見て、独り子の死を嘆くように嘆き、初子の死を悼むように痛む」(12:10)。この預言者は、何を思ってこのようなことを語ったのでしょうか。私たちには、主イエス・キリストを預言した言葉以外には聞こえてこないような言葉です。このお方を刺し貫いたことで、私たちの罪が決定的な姿をとりました。そのことに気づくとき、私たちは涙を流さないわけにはいかない。しかし、本当にその死を、ご自身の独り子の死を嘆いておられるのは、神様ご自身です。このお方によらなければ、私たちは救われようがありません。
私たちを絶望するしかない罪、ただひたすら涙するしかない罪から救ってくださるのは、キリストの真実だけです。この方が、私たちの救い主、私たちの信じる神ご自身なのです。

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...