2019年12月31日火曜日

2019年12月31日(マラキ書3)

今日の通読箇所:ヨハネの黙示録22、マラキ書3

マラキ書3;
「その日が来る」という「その日」を前に、私たちは生きています。主の日に向かって生きるのか、あるいはそれを無視して今だけしか見ないで生きるのか。前者のような生き方を、神学の言葉では「終末論的」と言います。終わりの日、主の日に向かって生きる生き方です。
「終末」というと、何かおどろおどろしいようなイメージがあるかも知れません。しかしそれは誤解です。私たちのところへ来てくださる神の前に生きること、それが聖書の言う終末論的な生き方です。
私たちには、次から次へと迫ってくる「今」の「現実」があります。現実の厳しさは私たちを近視眼的にします。目の前しか見えない。今日をなんとか乗り切ることだけで精一杯です。
「あばたたがたは言っている。『神に仕えることは空しい。その務めを守っても、また、万軍の主の前を嘆きつつ歩いても、何の益があろうか。今こそ、我々は傲慢な者を幸せな者と呼ぼう。彼らは悪を行っても栄え、神を試みても罰を免れている』」(14~15節)。今まさに来たらんとしている神の前に生きるのでなければ、私たちは刹那的にならざるを得ません。当然です。しかし、神の前に生きるならば、別の価値を知っている、ということになります。
具体的には、ここでは、献げ物のことについて言っています。「十分の一の献げ物をすべて貯蔵庫に運び入れ、私の家に食物があるようにせよ。これによって、私を試してみよーー万軍の主の仰せ。必ず、私はあなたがたのために天の窓を開き、祝福を限りなく注ぐであろう」(10節)。神様からの報いを信じなければ、献げ物なんて意味がありません。神を信じ、キリストを待ち望み、神の前に生きる者を、神は覚え、限りない祝福を下さいます。それは、確実なことです「しかし、わが名を畏れるあなたがたには、義の太陽が昇る。その翼には癒やしがある。あなたがたは牛舎の子牛のように、躍り出て跳ね回る」(20節)。神の前に、私たちは喜んで賛美と、礼拝を献げます。
だから、私たちは今日もイエス・キリストを待ち望みます。「大いなる恐るべき主の日が来る前に、私は預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は父の心を子らに、子らの心を父に向けさせる。私が来て、この地を打ち、滅ぼし尽くすことがないように」(23~24節)。私たちは、心をキリストに向け、主の日を待ち望みます。「御国を来たらせたまえ」と日ごとに祈ります。「これらのことを証しする方が言われる。『然り、私はすぐに来る。』アーメン、主イエスよ、来たりませ」(ヨハネの黙示録22:20)。
主イエスの恵みがあなたがたすべての者と共にあるように!

2024年4月24日の聖句

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