2020年1月15日水曜日

2020年1月15日(マタイによる福音書12:1~21)

マタイによる福音書12:1~21;
安息日を巡る出来事が二つ続いています。安息日の規定は私たちには少しわかりにくいところがあります。イスラエルに行ったことの人の話を聞くと、安息日になると、町中何もかもがお休みになるそうです。働いてはならない。一定の距離以上は歩けなくなるし、エレベーターのボタンも押してはいけないということで各階止まりになるとも聞きます。安息日の掟は、徹底しているようです。
それは、イスラエルの人々の聖書の民としてのアイデンティティの問題なのだと思います。自分たちは安息日の掟に従って時間を神に献げる。あるいは割礼というしるしを身に帯びている。その他の律法を守って生きている。どれもが神の民としての"しるし"であり、彼らのアイデンティティを支えるものです。
主イエスはそれを犯しました。安息日の掟を破った。最初は、弟子たちです。「その頃、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。」それが大問題になりました。麦泥棒、ということではありません。その場で積んで食べるのは許されています。しかし、麦を摘んで、それを揉んで殻を取り、口に運んで食べる。収穫と脱穀、調理ということでしょう。どれも安息日にしてはならない労働でした。もう一つは、安息日に片手の萎えた人に「手を伸ばしなさい」と言われ、その手を癒やしてやったのです。治療も、禁じられている。その上、この人をイエスのもとに連れてきてイエスを訴えようと画策した者たちに向かって、「安息日に善いことをするのは赦されている」と言い、彼らの偽善を指摘したのです。イエスの言動は、彼らの激昂を買いました。
主イエスは律法を犯しました。少なくとも、表面的には。しかし明らかに、本当に律法の心にしたがったのは主イエスの方です。主がなさった安息日にした善いことというのは、穴に落ちた羊を、安息日に引き上げやるようなことです。人の命を救うためのことです。主イエスは「公正を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折ることもなく、くすぶる灯心の火を消すこともない」と聖書に書かれているとおりに、傷ついた葦のような者や消えてしまいそうな灯心のような者を優しく包んでくださいました。それが、安息日の掟の本来の精神でした。
法の外に本来の正しさがあるということはままあるのではないでしょうか。映画「万引き家族」などが描いたのは、そういう姿であろうと思います。私たちがまるで法律の奴隷のような有り様になってしまわないために、私たちは主イエス・キリストが示してくださった神の限りない慈しみに、いつも帰りたいと願います。主は、傷ついた葦(それは生産性がない代物です)も、くすぶる灯心(暗くて見えないのでは、灯心の役に立ちません)も、捨ててしまうことのない方です。主イエスは、時には律法を犯してでも、律法という完成された体系の外に踏み出してでも、穴に落ちた羊を求めて、穴の底まで下ってくださるお方です。「異邦人は彼の名に望みをおく。」私たちの望みは、このお方にあります。

2024年4月24日の聖句

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