2020年1月17日金曜日

2020年1月17日(マタイによる福音書13:1~30)

マタイによる福音書13:1~30;
「その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆が御もとに集まってきたので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。イエスはたとえを用いて多くのことを語られた。」
主イエスはたとえ話の名人、とよく言われます。確かにその通りです。たくさんのたとえ話をしてくださいました。この章にはイエス様が話してくださったいくつものたとえ話が記録されています。ただ、主イエスの譬えは、その目的をよく考えることが肝要であると思います。普通は何事かを言おうとするとき、言わんとすることを譬えによって話すならば、分かりやすくするために身近なものに置き換えて話します。主イエスの譬えは、確かに身近なもので話しておられます。今日の種まきの話も、主の話を聞いていた群衆の日常の風景であったことでしょう。しかし、この譬えを初めとして、主イエスの譬えは、題材は身近でも話としては分かりやすいわけではありません。(100匹の羊や放蕩息子の話に納得できない人は多い!思えば、奇妙な話です。)主は、分かりやすくするためというのではない目的を持って譬えで話しておられると考える方がよいのだと思います。
「あなたがたには天の国の秘儀を知ることが許されているが、あの人たちには許されていない」と、主は言われます。「持っている人はさらに与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまで取り上げられる。だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。」まるで、分からなくするために譬えで話しているのだ、と言っておられるようです。
そう言いながら主がここで話されたのは、四つの種の話。種を蒔く人が蒔いた種が、道端、石だらけの土の少ないところ、茨の上、良い土地に落ちた、という話です。この話の意味は、主ご自身が解説してくださっています。「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。誰でも、御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれた者を奪い取る。・・・。」悪い者にすぐに御言葉の種を奪い取られてしまう人。御言葉を聞いて、すぐに喜んで受け入れるが、自分に根がないので、御言葉のための苦難や迫害ですぐに躓いてしまう人。世の思い煩いや富の誘惑に邪魔をされて、御言葉が実らない人。それに対して、良い土地に蒔かれた者とは、御言葉を聞いて悟る人のことだと言います。
最初の三つと最後の良い地の種の対比は、たとえ話を聞いて分かる人と、分からない人との対比そのものです。この場合の「分かる」というのは「知的な理解」という意味では分かりません。主イエスの譬えを聞いて、主イエスの言葉によって自分が変えられることを受け入れるという意味です。御言葉に変革されることを喜んで受け入れるならば、その実りは100倍、60倍、30倍になる。主が「譬え」をお用いになったのは、主がなさる私たちにとっては奇妙な天の国の話を、「分かる」ために主体的に聞いてほしい、という招きなのではないでしょうか。あの良い地に蒔かれた種のように、御言葉を受け入れ、御言葉に変革され、実りを結んでほしい、という主イエスの促しであるのだと思います。そのために、譬えは主体的に聞かなくては「分かる」ことがありません。「あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ」というのは、主イエスの御言葉が作る新しくすばらしい現実(それは罪ある私たちには実にしばしば奇妙に見えます!)への招きです。

2024年3月28日の聖句

正義は国を高める。罪は民の恥となる。(箴言14:34) イエスはそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。目的の場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。(ルカ22:39~40) 主イエス・キリストは、この夜も「いつ...