マタイによる福音書17;
「六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。すると、彼らの目の前でイエスの姿が変わり、顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。」
六日の後と始まっています。いつから六日後なのかというと、主イエスが始めて十字架と復活の予告をしてから六日目です。それを聞いたシモン・ペトロは、主を脇に連れ出して「主よ、とんでもないことです」と言って主イエスをいさめ始めた。そして主イエスに「サタン、引き下がれ」と大変厳しく叱られました。それから六日目の出来事です。
その日、主イエスは高い山に登られた。山の上というのは、マタイによる福音書では神との出会いの場所です。第5章では、主イエスが山の上で御言葉を語られました。キリストの弟子として生きる指針を示されました。復活の後、第28章では弟子たちが主イエスに指示された山に登り、そこでイエスに会って「あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい」という使命を与えられました。どちらも山の上の出来事です。今日の出来事も、山の上で起きたことでした。
主イエスのお姿が変わり、顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。復活の時の栄光のお姿を思わせる描写です。そして栄光のお姿の主イエスは、モーセとエリヤと語り合っていた、といいます。モーセは律法の代表者です。エリヤは預言者の代表者です。この当時、「律法と預言者」と言えば、聖書のことを意味していました。聖書の語りかけが指し示すのは、キリストの復活のお姿です。このキリストを指し、雲の中から父なる神様のみ声が聞こえます。「これは私の愛する子、私の心に適う者。これに聞け」。私たちは、神様を知るために、復活のキリストのお言葉に耳を傾ければいい、そういうことではないでしょうか。
14節以下では弟子たちが悪霊に取りつかれた子どもを癒やせなかったという話になります。どうして癒やせなかったのでしょうかと問う弟子たちに、主イエスは「信仰が薄いからだ」と言われました。もしもからし種一粒ほどの信仰があれば、山をも動かせるはずだった、と。そして、それに続く22,23節は、主イエスが二度目の十字架と復活の予告をし、弟子たちが心を痛めたという話です。この流れで見てみると、ここで弟子たちに決定的に欠けていた信仰というのは、十字架と復活への信仰であることが分かります。キリストの十字架、そして復活によって救われたことを信じていれば、弟子たちにもあの子を助けることができたということでしょう。私たちキリスト教会が、この時代で語るべき言葉は、やはりキリストの復活のしらせに他ならないということを教えられます。復活のキリストを指して、神は「これに聞け」と言われました。このお方こそ、私たちの救いだからです。
「六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。すると、彼らの目の前でイエスの姿が変わり、顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。」
六日の後と始まっています。いつから六日後なのかというと、主イエスが始めて十字架と復活の予告をしてから六日目です。それを聞いたシモン・ペトロは、主を脇に連れ出して「主よ、とんでもないことです」と言って主イエスをいさめ始めた。そして主イエスに「サタン、引き下がれ」と大変厳しく叱られました。それから六日目の出来事です。
その日、主イエスは高い山に登られた。山の上というのは、マタイによる福音書では神との出会いの場所です。第5章では、主イエスが山の上で御言葉を語られました。キリストの弟子として生きる指針を示されました。復活の後、第28章では弟子たちが主イエスに指示された山に登り、そこでイエスに会って「あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい」という使命を与えられました。どちらも山の上の出来事です。今日の出来事も、山の上で起きたことでした。
主イエスのお姿が変わり、顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。復活の時の栄光のお姿を思わせる描写です。そして栄光のお姿の主イエスは、モーセとエリヤと語り合っていた、といいます。モーセは律法の代表者です。エリヤは預言者の代表者です。この当時、「律法と預言者」と言えば、聖書のことを意味していました。聖書の語りかけが指し示すのは、キリストの復活のお姿です。このキリストを指し、雲の中から父なる神様のみ声が聞こえます。「これは私の愛する子、私の心に適う者。これに聞け」。私たちは、神様を知るために、復活のキリストのお言葉に耳を傾ければいい、そういうことではないでしょうか。
14節以下では弟子たちが悪霊に取りつかれた子どもを癒やせなかったという話になります。どうして癒やせなかったのでしょうかと問う弟子たちに、主イエスは「信仰が薄いからだ」と言われました。もしもからし種一粒ほどの信仰があれば、山をも動かせるはずだった、と。そして、それに続く22,23節は、主イエスが二度目の十字架と復活の予告をし、弟子たちが心を痛めたという話です。この流れで見てみると、ここで弟子たちに決定的に欠けていた信仰というのは、十字架と復活への信仰であることが分かります。キリストの十字架、そして復活によって救われたことを信じていれば、弟子たちにもあの子を助けることができたということでしょう。私たちキリスト教会が、この時代で語るべき言葉は、やはりキリストの復活のしらせに他ならないということを教えられます。復活のキリストを指して、神は「これに聞け」と言われました。このお方こそ、私たちの救いだからです。