2020年1月21日火曜日

2020年1月21日(マタイによる福音書16)

マタイによる福音書16;
「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか。」
フィリポ・カイサリアで、主イエスは弟子たちにそう尋ねられました。フィリポ・カイサリアは、「カイサリア」と呼ばれているとおり、ローマ皇帝の支配が色濃い町です。そこにはカエサルの像が据えられていたと言います。カエサルは、自らを神と称して臣民に拝ませていました。神である皇帝は「主」と、あるいは「救い主」呼ばれていました。そのような皇帝の支配の色濃い町で、主イエスは問いかけてきます。「あなたがたは私を何者だと言うのか。」私たちは、何と答えるのでしょうか。
それに対し、シモン・ペトロが答えます。「あなたはメシア、生ける神の子です。」私の神は皇帝ではなく、あるいはヘロデ王でも天皇でもありません。私の主、救い主は、この世の権力を持つ何者でもありません。イエスさま、あなたこそ私の主、私の救い主、あなたこそ生ける神の子です。ペトロと共に、私たちもそう答えます。
そこで大切なことは、私たちの救い主は無力にも十字架にかかり、そして三日目に復活する方である、ということです。ペトロはその一点で躓きました。十字架と復活こそ、私たちの躓きの石なのです。それは、十字架と復活が、この世が救いとして提示する魅力的なものとあまりにもかけ離れているからなのではないでしょうか。皇帝の救い、この世の力が見せる救い、富のもたらす救い、それらは皆私たちの願いが実現した先にある救いです。しかし主イエスが神の子として私たちに与えてくださる救いは、自ら無力になり、無残に殺され、私たちの罪を背負わされて罰を受けることによってもたらしてくださる救いです。ペトロでなくとも、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言わないわけにはいかない。
しかし、今朝の第16章は、その始まりからすでに、主イエスが私たちに見せてくださるしるしは復活のしるしだけと言っていました。「邪悪で不義の時代はしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」三日間魚の腹の中にいたヨナのしるし、それは三日目の復活を意味します。主イエスは、十字架と復活によってだけ、ご自分の救い主たることを私たちに示してくださる。
ですから、主イエスが私たちにくださるのは私たちの願望を超えた救いである、ということであるのだと思います。そして、そうであるからこそ、本当に救いなのではないでしょうか。十字架の上で神に見捨てられた死なれた方、その神に墓から引き上げられた方。このお方こそ、私たちのただひとりの救い主、神の子メシアに他なりません。

2024年12月26日の聖句

私が主、彼と共にいる彼らの神であり、彼らがわが民イスラエルの家であることを、彼らは知るようになるーー主なる神の仰せ。(エゼキエル34:30) 今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。(ルカ2:11) 天使が羊飼いたちに向かって宣言し...