2020年1月23日木曜日

2020年1月23日(マタイによる福音書18)

マタイによる福音書18;
弟子たちから「天の国では、一体誰がいちばん偉いのでしょうか」と問うてきた弟子たちに対して、主イエスは一人の子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて言われます。「よく言っておく。心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の国でいちばん偉いのだ。また、私の名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、私を受け入れるのである。」
弟子たちが主イエスに問うた「偉い」というのは「大きい」ということです。「偉い」と理解すれば人から褒められたい、尊敬されたい、一目置かれたいということでしょうし、「大きい」と理解すれば力がある、好きなように振る舞える、支配できる、ということになると思います。どちらも表裏一体ですから、切り分ける必要はないのかもしれませんが。いずれにしても、弟子たちは天の国でそのような存在になりたくて、主イエスに尋ねました。「天の国では、一体誰がいちばん偉いのでしょうか。」
主イエスの答えは意外です。一人の子どもを立たせて、心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。天の国でいちばん偉い人、大きい人は誰かときいたのに、この子どものようにならなければそもそも天の国には入れないと言われます。さらに、この子どものように、自分を低くするものが、天の国ではいちばん偉いと言うのです。弟子たちは自分を低くしたいのではなくて、偉くなりたかった。主イエスの答えは、私たちに価値の転換を迫ります。
そのさらに具体的な現れが、続く言葉です。「私の名のためにこのような子どもの一人を受け入れるものは、私を受け入れるのである。」このような子どもの一人とは、何を意味しているのか。この第18章を続けて読むと、明らかです。6節には「これらの小さな者の一人」とあり、10節にも「これらの小さな者」と言って、迷い出た一匹の羊の話をします。さらに、15節以下では、あなたに対して罪を犯したきょうだい。そして21節以下でも、同じく、自分に100デナリオン借りていて返してくれない仲間です。ここに出て来る子どもや小さな者、迷い出た羊、罪人、借財人は、同じことを指しているのでしょう。すなわち、自分に不義を働く受け入れがたい存在です。主イエスの名のためにそのような一人の人を受け入れる。それが、天の国で求められるへりくだりだと主イエスは言われます。
このへりくだりは、最後のたとえ話で言われているとおり、自分が一万タラントンという莫大な借りを神から赦して頂いたという事実からしか始まりません。私たちは、赦された罪人です。赦されたということが私たちのすべてです。だから、天の国での大きさは、神と隣人の前でのへりくだりによって測られます。

2024年12月26日の聖句

私が主、彼と共にいる彼らの神であり、彼らがわが民イスラエルの家であることを、彼らは知るようになるーー主なる神の仰せ。(エゼキエル34:30) 今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。(ルカ2:11) 天使が羊飼いたちに向かって宣言し...