カナの婚礼。愛すべき、美しい物語です。しかし同時に、戸惑いを呼び起こします。それは、主イエスの母マリアへの対応です。そもそも何があったのか。ガリラヤのカナで婚礼がありました。ナザレからもそう遠くない場所のようです。イエスもその婚礼に招かれていました。母マリアもいました。親類の婚礼だったのかもしれません。ところが宴会の途中でぶどう酒が尽きてしまいました。母はイエスにそのことを伝えます。ところが、イエスは言われるのです。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです」と。母とも呼ばずに「婦人よ」と言い、更には「わたしとどんなかかわりがあるのです」とまで言います。イエスは親類の婚礼だからとか、地元のよしみでとか、母の頼みだからということで、奇跡を起こそうとはなさいませんでした。地縁血縁を理由に助けてくれない。だから私たちからしたら冷たく感じるのです。
正月は一年の中でも地縁血縁を強く意識するときです。多くの人が親族の集まりをし、あるいは神社に初詣に行くという人も多いでしょう。私も親族の集まりをしました。それに対して主イエスは、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです」と言って、私たちの常識的な価値観からしたらつまずいてしまうようなことを言われるのです。
ただ、主イエスはそう言って拒んでおられるようですが、マリアは召し使いたちに「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言います。もしも役に立ちそうなことを言ったらというのではなく、どんなことであろうと何かを言ったらそれにしたがってほしいと命じた。イエスの言葉に条件をつけずに、イエスを信じました。そして実際に召し使いは言われた通りに大量の水を運びます。果たして、召し使いらが汲んできた水はぶどう酒に変わりました。主はそのようにして最初のしるしを行い、栄光を表された。それを見て、「弟子たちはイエスを信じた」のです。ここでの急所は「信じる」ということです。母マリアはイエスを信じ、召し使いは言われたとおりに従い、弟子たちはしるしをみてイエスを信じた。イエスは私たちを信じることへと招いておられます。
『カラマーゾフの兄弟』で「ガリラヤのカナ」という章があります。長老ゾシマが死に、人びとの期待に反してあっという間に腐臭が漂い始め、アリョーシャはたいへんなショックを受けます。やがて彼は遺体を収めた庵室で聖書の朗読を聞く。カナの婚礼の場面です。アリョーシャはそれを聞きながら、この婚礼にゾシマもいたという幻を見ました。彼は喜びに溢れ、大地に接吻し、神と人との赦しを求めた。そういう場面で出てきます。私たちはどんなに信仰深くても、死ねば朽ちる卑しい存在です。そして、混乱するし、絶望するし、自分を見失います。自分を正当化し、他人を傷つけもするし、混乱を招く。私たちには嘆くべき現実があります。この現実は、神の赦しがなければどうにもなりません。
主は「わたしの時はまだ来ていません」と言われました。この「時」というのは十字架の時のことです。やがて来るその時、イエスは私たちを罪の現実から救い、主と共にぶどう酒を頂く宴席に招いてくださいます。実は私たちが主を信じるその信仰すら、主ご自身がくださったものなのです。