2020年1月6日月曜日

2020年1月6日(マタイによる福音書6:19〜34)

マタイによる福音書6:19~34;
以前、日本中会でキリスト者の歌手の久米小百合さんを招いて、コンサートをして頂いたことがありました。久米さんは、以前、久保田早紀という芸名で異邦人という曲をヒットさせたことがある方です。キリスト者になって、今は音楽を通して伝道をしておられます。時々、いろいろな形で久保田早紀としての彼女を探してきて、仕事の依頼をしてくる方がおられるそうです。異邦人を歌ってほしいとか、過去に一世を風靡した芸能人としてテレビに出てほしいとか。しかし、久保田早紀という仕事はもうするつもりがない、と久米さんはおっしゃっていました。「二人の主人に仕えることはできない」から、と。
「誰も、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を疎んじるか、どちらかである。あなたがたは、神とと水戸に仕えることはできない。」主イエスはそう言われます。
そして、この言葉を挟むようにして、前の段落では「宝は、天に積みなさい」と言われます。「あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」もしも地上に宝を積むと、目が悪くなり、全身が暗くなってしまう。だから、「地上に宝を積んではならない」。神と富とに仕えることはできないからです。
そして、25節以下の後半の段落では、「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また体のことで何を着ようかと思い煩うな」と言われます。食べること飲むこと、着ること。それらはすべてお金によって保証する生活の確かさです。もちろん、霞を食って生きるとか、裸で過ごすとか、そんな愚かな話ではありません。生活の次元で神を信頼する、という話です。「あなたがたの天の父は、これらのものがみな、あなたがたに必要なことをご存じである。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな添えて与えられる。」
神と富とに兼ね仕えて、信仰の領域と生活の領域を両立させるのではない。神に仕えるとき、神が生かしてくださっていることを知ることになる、と主イエスは言われるのです。「だから、明日のことを思い煩ってはならない。明日のことは明日自らが思い煩う。その日の労苦は、その日だけで十分である。」私たちは主にあって、今日生きるべき労苦に生きます。今日生きるべき命を、神が与えてくださっているからです。

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...