2020年1月5日日曜日

2020年1月5日(マタイによる福音書6:1〜18)

マタイによる福音書6:1~18;
見てもらおうとして、人の前で善行をすること。人から褒めてもらうために、目立つように施しをすること。人に見てもらうために、街道や大通りで祈ること。人に見えるように、暗い顔をして断食すること。それらは、すべて、その報いを受けてしまっている。そもそも人からの報いを得るためにしていることにすぎない。神は隠れたことを見ておられる方名のだから、むしろ自分のよい業を人目から隠せ、と主は言われます。
これに対して、「異邦人のようにくどくどと述べて」祈るというのは、少し違うようです。ここでは人に褒められたいとか、神は隠れたことを見ておられるとか、そういうことは話題になっていません。異邦人がくどくどと述べて祈るのは、人から褒められるため、すごいお祈りだねと言ってもらうためではない。「言葉数が多ければ、聞き入れられると思っている」からだ、と言います。つまり、神様についての根本的な思い違いがあるのだ、と主は言われるのです。
主は言われます。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」と。祈っている相手が天の父であると知っていれば、祈り方が変わるはずだと主は言われます。「異邦人」というのは外国人ということよりも、むしろ、神様を知らないという意味です。神を知らないというのは知識として知らないということではなく、神の父としての慈しみを知らないということです。だから、祈るときは異邦人として祈るのではなく、父に愛されている息子・娘として祈る。それが、主イエス・キリストの父なる神に献げる祈りとしてふさわしい祈りなのです。
思えば、人に見てもらいたい、褒めてもらいたい。そういう邪念は、神の父としての慈しみへの信頼が欠けたところで生まれるものなのかもしれません。父として信頼しているならば、この方からの報いがあればそれでいい、それが何よりだと言えるのではないでしょうか。
主イエス・キリストが教えてくださった祈りは、この信頼に満ちた祈りです。「天におられる私たちの父よ」と祈りはじめます。主イエスが「父」と呼んだお方を私たちも「父」と呼んで祈ることができる。この祈りは、信仰の秘儀そのものです。

2024年3月28日の聖句

正義は国を高める。罪は民の恥となる。(箴言14:34) イエスはそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。目的の場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。(ルカ22:39~40) 主イエス・キリストは、この夜も「いつ...