2020年2月20日木曜日

2020年2月20日(ローマの信徒への手紙9:19~33)

ローマの信徒への手紙9:19~33;
「ホセアの書でも、言われているとおりです。『私はわが民ではない者をわが民と呼び、愛されなかった女を愛された女と呼ぶ。「あなたがたはわが民ではない」と彼らに言われたその場所で、彼らは「生ける神の子ら」と呼ばれる。』」
話は、ユダヤ人のことです。神様が異邦人に福音を知らせ、信じて多くの人が救われた。パウロはそこで私たちの反論に答えています。「そこで、あなたは言うでしょう。『ではなぜ、神はなおも人のを責められるのか。神の御心に誰が逆らうことができようか。』」神様が異邦人を選んでユダヤ人を捨てたのなら、もう今更ユダヤ人が悔い改めようが神を求めようが、そんなことは関係ないではないか。どうせ神様が全部を決めてしまうのなら、私たちの信仰に意味なんて無いだろう、という問です。
これは、私たちの間でも繰り返し問われていることではないかと思います。「運命」と呼ばれることもあります。私たちを支配する、私たちにはどうすることもできない力。それが、結局は私の人生を支配しており、努力にも限界があるという、諦めを前提にした信仰です。
パウロはこう言います。「ああ、人よ。神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた者が造った者に、『どうして私をこのように造ったのか』と言えるだろうか。」つまり、造られた者としての分をわきまえよ、ということでしょう。私は神に造られた者。その分際に立ち帰れば、運命論に逃げてしまうようなことはないはずだ、と言うのです。
私たちは神様に造られました。人間の陶工であっても、器をある目的に従って造ります。ご飯を食べるため、おかずをもるため、鑑賞のため、植物を植えるため、掃除のため、ゴミ箱にするため・・・。神様も、私たちを目的をもって造りました。私をつくった神さまに目的があるということは、私たちは、正体不明で恐ろしい「運命」なるものに支配されているのではない、ということです。
あるときには、私たちの目から見たら、自分をこのような目的のために造って欲しくはなかったということもあるかもしれません。もっと違う目的のために、雑巾を絞るためではなく美しい花を生けるための器にして欲しかった、と。しかし、そのような清いことか汚れたことかという区別は私たちの目から見た区別にすぎません。神様は、かえって、神の民ではない者、愛されなかった者を選んで愛し、ご自分のものと呼んでくださいました。この世の中では捨てられる者をあえて選んで、ご自分の愛するものとしてくださいました。だから、この愛を信頼しよう。パウロは私たちにそう呼びかけます。

2024年4月25日の聖句

救いは主のもの。 あなたの民の上に祝福を。(詩編3:9) イエスは手を上げて彼らを祝福された。(ルカ24:50) 主イエス・キリストは復活して40日間弟子たちと共におられ、その後、天に昇って行かれました。その時、主イエスは手を上げて弟子たちを祝福し、その恰好のままで天に上げられて...