ローマの信徒への手紙10;
「『言葉はあなたのすぐ近くにあり、あなたの口に、あなたの心にある。』これは、私たちが宣べ伝えている信仰の言葉です。口でイエスは主であると告白し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で告白して救われるのです。」
聖書は驚くべきことを言います。「人は心で信じて義とされ、口で告白して救われるのです。」常識的には、おかしな言葉です。普通はこう考えます。人間、口で何を言おうとも、本音のところでは信用ならない。結局、心の奥にしまってある本音が現れるのは、生き方だ。何をしているかだ。どう生きているかによって、その人の価値は決まる。
もちろん、どう生きたって、どういう行いに生きていたってどうでも良い、という話ではありません。そもそも5節以下では、「心の中で『誰が天に上るだろうか』と言ってはならない」という話をしていました。つまり、他人の信仰についてあれこれ評価をしたり裁いたりしてはならない、という意味でしょう。ここでの何を話すのかということは、私たちの行いを意味します。ですから、信仰において行いはどうでもいいものだ、という話ではないことが分かります。
パウロが話しているのは、私たちの救いにかかわることです。私たちを救うのは、私たちの行いや生き方ではない、ということです。それは、ただ神様だけの問題です。だから、私たちは誰が天に上るのか、誰が地獄に落ちるのかと言って、神様の領域に口を挟んではならないのです。私たちは、ただ信じるだけです、キリスト・イエスに示された神の愛を。「ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。『主の名を呼び求める者は皆、救われる』のです。」
私たちを救うのは、私たちの行いではありません。神様だけです。だから、私たちは神様を信じるだけです。キリストを信じ、キリストの愛を感謝するだけです。イエスは主であると告白すること、神がイエスを死者の中から復活させられらと心で信じること。私たちは、キリストの愛をただ受け入れるだけです。私たちの行いによらない救いだから私たちもこの救いに入れられたのです。
「『言葉はあなたのすぐ近くにあり、あなたの口に、あなたの心にある。』これは、私たちが宣べ伝えている信仰の言葉です。口でイエスは主であると告白し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で告白して救われるのです。」
聖書は驚くべきことを言います。「人は心で信じて義とされ、口で告白して救われるのです。」常識的には、おかしな言葉です。普通はこう考えます。人間、口で何を言おうとも、本音のところでは信用ならない。結局、心の奥にしまってある本音が現れるのは、生き方だ。何をしているかだ。どう生きているかによって、その人の価値は決まる。
もちろん、どう生きたって、どういう行いに生きていたってどうでも良い、という話ではありません。そもそも5節以下では、「心の中で『誰が天に上るだろうか』と言ってはならない」という話をしていました。つまり、他人の信仰についてあれこれ評価をしたり裁いたりしてはならない、という意味でしょう。ここでの何を話すのかということは、私たちの行いを意味します。ですから、信仰において行いはどうでもいいものだ、という話ではないことが分かります。
パウロが話しているのは、私たちの救いにかかわることです。私たちを救うのは、私たちの行いや生き方ではない、ということです。それは、ただ神様だけの問題です。だから、私たちは誰が天に上るのか、誰が地獄に落ちるのかと言って、神様の領域に口を挟んではならないのです。私たちは、ただ信じるだけです、キリスト・イエスに示された神の愛を。「ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。『主の名を呼び求める者は皆、救われる』のです。」
私たちを救うのは、私たちの行いではありません。神様だけです。だから、私たちは神様を信じるだけです。キリストを信じ、キリストの愛を感謝するだけです。イエスは主であると告白すること、神がイエスを死者の中から復活させられらと心で信じること。私たちは、キリストの愛をただ受け入れるだけです。私たちの行いによらない救いだから私たちもこの救いに入れられたのです。