2020年2月24日月曜日

2020年2月24日(ローマの信徒への手紙12)

ローマの信徒への手紙12;
「こういうわけで、きょうだいたち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたの理に適った礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を造り変えていただき、何が神の御心であるのか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるのかをわきまえるようになりなさい。」
「これこそ、あなたがたの理に適った礼拝です」とあります。新共同訳では「あなたがたのなすべき礼拝です」となっているところですので、基本的には同じ理解と言ってよいと思います。この「理に適った」とか「なすべき」と訳されている言葉の語源は「言う」という動詞で、「言葉」や「言」と訳される「ロゴス」いう単語も同じルーツを持ちます。ですので、「理に適った」というのは、まさに筋の通った、そうすべき事柄だ、ということになるだろうと思います。
この言葉で興味深いのは、同じ単語に「霊的な」という意味もあるということです。日本聖書協会共同訳の訳注には、その意味もあると指摘されています。「理に適った」というのと「霊的な」というのでは随分と違う、場合によっては矛盾するのではないかと考えてしまいがちですが、それは全くの勘違いだと言わなければなりません。
ここで「霊的」というのは、この世に倣わないということです。世間のまねをするのではなく、神様の前にふさわしい生き方を選び取る。何が神の御心であり、神に喜ばれるのかを理性を持って識別し、選んで、生きていきます。神の御心を求め識別して生きることこそ、霊的な生き方です。それこそ、私たちの礼拝です。礼拝は、日曜日の午前中だけの話ではありません。私たちの生き方そのものが神を礼拝するものとなりうるのだ、と聖書は語りかけます。素敵な御言葉です。
神の御心に適った生き方ということについて、9節ではすぐに「愛には偽りがあってはなりません」と言います。また「兄弟愛をもって互いに深く愛し、互いに相手を尊敬し、怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望を持って喜び・・・」と続きます。私たちが兄弟愛に生きる、そのためにこの身を献げること、それが理に適った生き方であり、礼拝だと言います。なぜ理に適っているのか?それこそ現代的なこの世の知恵では、隣人愛なんてコスパが悪いと言われかねません。隣人愛が理に適っているのは、私自身がキリストの愛に生かされているからです。それ以外の理由はありません。情けは人のためならずではなく、私たちはまさに自分のためではない「人のため」の情けに招かれています。それは、キリストが私のために情け深い方でいてくださるからです。他の理由は、ありません。キリストの愛が私たちのすべてです。

2024年4月26日の聖句

神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ人間のすべてである。(コヘレト12:13) (イエスの言葉)「第一の戒めは、これである。『聞け、イスラエルよ。私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の戒めは...