2020年2月25日火曜日

2020年2月25日(ローマの信徒への手紙13)

ローマの信徒への手紙13;
「人は皆、上に立つ権力に従うべきです。神によらない権力はなく、今ある権力はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権力に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くことになります。」
使徒パウロが書いた手紙の一節であるこの言葉は、大変驚くべき言葉ではないでしょうか。パウロといえばローマ帝国の権力と対峙した人です。自分を捕縛したユダヤの最高法院に対し、自分はローマの市民権を持っているのだからローマへ護送して皇帝に直訴させて欲しいと言って、実際にローマまで連行されます。ローマでは囚われの身で生活をし、暴君ネロの時代にローマで殉教したと伝えられています。第一、主イエスを捕まえたのもユダヤの権力者たちでしたし、十字架刑の判決を下したポンテオ・ピラトはローマの役人です。権力の下での苦しみを実際に嘗めつくしたし、権力の下で殺された方を神のこと信じている者の言葉です。ですので、大変驚くべき言葉ではないでしょうか。
パウロはこの下りで税金のことにも触れています。「すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。税金を納めるべき人には税金を納め、関税を納めるべき人には関税を納め、恐れるべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。」主イエスご自身、皇帝に対する税金を納めるようにおっしゃったことがありました。キリスト者はこの世で生き、働き、自分の義務に従って決められた額を納税します。一人の善良な市民として生きます。
しかし、例えばナチスに支配されていた時代のドイツのように、国家権力が暴走してしまったとしたらどうなのでしょうか。それでも権力に従うべきなのでしょうか。パウロは権力について「権力は神に仕える者であり、この務めに専心しているのです」と言います。従って、もしも権力が神に仕えるという究極的な目的から逸脱してしまうことがあれば、それに対しては「否」と言うことまた権力に仕えることの一つなのではないでしょうか。権力に仕えることと時流に乗ることとは違います。神に仕えることを蔑ろにするならば、「ならぬものはならぬ」と言わねばなりません。
神に仕えるということを、パウロは「互いに愛し合うことのほかは、誰に対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです」と言って、愛の掟に見ています。互いを愛し、隣人を尊び、「馬鹿騒ぎや泥酔、淫乱や放蕩、争いや妬みを捨て」る。つまり、「主イエス・キリストを着」ること。それが神に仕えることだと言います。それは、キリストを着ると言っているとおり、主イエス様が歩まれたように歩むということではないでしょうか。私たちは、この世界でキリストを着る者、神の国からこの世界に来た在留外国人なのです。

2024年12月22日の聖句

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