マルコによる福音書2;
主イエスの宣教の言葉を、マルコは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」と伝えています。この「時は満ちた」ということを、今日の聖書の御言葉は強調して伝えているように思います。
ある人々が、イエスの弟子たちに「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食するのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と言いました。するとイエスは彼らに言われます。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいる間は、断食はできない。」イエスがここにおられる今、この時は、婚礼にも似た喜びのときである。断食し、嘆き、悲しむべきときではない。神の国の祝いをするべきとき、宴のときだ、と主は言われます。神の国がイエスによってここに近づいてきているから、そういう時が満ちているから、今は喜びの時だと言われるのです。
更に主イエスは「しかし、花婿が取り去られる日が来る。その日には、彼らは断食することになる」とも言われます。花婿が取り去られる日。十字架の日のことを言っておられるのでしょう。花婿が取り去られたゆえに断食し、嘆き、悲しむであろうと言われる。キリストを信じる者の悲しみはキリストが取り去られたことだし、喜びは、キリストが共にいてくださって神の国を宣言しておられること。そのように言います。
私たちの今この時は、いかなる時なのでしょう。暗いニュースばかりの毎日です。この先をなかなか楽観視しがたいご時世。そんなときにこそ、私たちは主イエスのこの言葉を思い起こしたいと思います。私たちが悲しむとすればそれは主が見えないことの悲しみだけであり、それは十字架のときに起こり、復活で終わりました。そして、主が共にいて御言葉を語り、福音を宣言し、神の国の到来を告げてくださっているので、私たちの悲しみが消えてしまうことはありません。
だから、この断食問答に続く23節以下では、安息日のことが論じられています。「安息日は人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」安息日、それは、この日の主でいらっしゃる方を礼拝する日です。主が私たちに神の国の到来を告げ、福音を宣言してくださる日、それを共に喜ぶ日。それが安息日。私たちは、今日も、その日を目指して旅を続けます。
主イエスの宣教の言葉を、マルコは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」と伝えています。この「時は満ちた」ということを、今日の聖書の御言葉は強調して伝えているように思います。
ある人々が、イエスの弟子たちに「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食するのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と言いました。するとイエスは彼らに言われます。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいる間は、断食はできない。」イエスがここにおられる今、この時は、婚礼にも似た喜びのときである。断食し、嘆き、悲しむべきときではない。神の国の祝いをするべきとき、宴のときだ、と主は言われます。神の国がイエスによってここに近づいてきているから、そういう時が満ちているから、今は喜びの時だと言われるのです。
更に主イエスは「しかし、花婿が取り去られる日が来る。その日には、彼らは断食することになる」とも言われます。花婿が取り去られる日。十字架の日のことを言っておられるのでしょう。花婿が取り去られたゆえに断食し、嘆き、悲しむであろうと言われる。キリストを信じる者の悲しみはキリストが取り去られたことだし、喜びは、キリストが共にいてくださって神の国を宣言しておられること。そのように言います。
私たちの今この時は、いかなる時なのでしょう。暗いニュースばかりの毎日です。この先をなかなか楽観視しがたいご時世。そんなときにこそ、私たちは主イエスのこの言葉を思い起こしたいと思います。私たちが悲しむとすればそれは主が見えないことの悲しみだけであり、それは十字架のときに起こり、復活で終わりました。そして、主が共にいて御言葉を語り、福音を宣言し、神の国の到来を告げてくださっているので、私たちの悲しみが消えてしまうことはありません。
だから、この断食問答に続く23節以下では、安息日のことが論じられています。「安息日は人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」安息日、それは、この日の主でいらっしゃる方を礼拝する日です。主が私たちに神の国の到来を告げ、福音を宣言してくださる日、それを共に喜ぶ日。それが安息日。私たちは、今日も、その日を目指して旅を続けます。