マルコによる福音書4:1~20;
主イエスのたとえ話です。種を蒔く人の蒔いた種が、ある種は道端に落ちて烏に食べられ、他の種は石地の浅い土に落ちて日照りに枯れてしまい、別の種は茨の中に落ちたので茨に邪魔されて枯れてしまいました。しかし良い土地に落ちた種は芽生え、育って実を結び、あるものは30倍、あるものは60倍、あるものは100倍になった、という話です。
これは、たとえ話のたとえ話です。つまり、たとえ話とはどういうものなのかを説明した話です。言うなれば、主イエスご自身による、たとえ話の種明かしのようなものであると思います。
13節以下で詳しくその意味を説明しておられる。種を蒔く人は神の言葉を幕。道端のものとは、御言葉がまかれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て御言葉を奪い取ってしまう者。石地の人とは、御言葉を聞くとすぐに喜んで受け入れるが、自分に根がないので、苦難や迫害のためにすぐに躓いてしまう者。茨の中に落ちた者は、御言葉を聞くが、世の重い患いや富の誘惑、その他のいろいろな欲望のために御言葉を負債で実を結ばない。そして、「良い土地に落ちた者とは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は30倍、ある者は60倍、ある者は100倍の実を結ぶ」と言われます。
やはり、一番大切なのは、良い土地に結んだ種だと思います。良い土地に落ちた種とは、「御言葉を聞いて受け入れる人たち」と主はおっしゃいました。御言葉を聞くだけでなく、受け入れる。聞くだけで済ましてしまうなら、烏が来て食べてしまいます。自分の中に根を張ることを拒めば、すぐに枯れてしまいます。御言葉の種も聞くけど他にも依り頼んでいる時代精神があるならば、それが邪魔をして結局は御言葉をのみ込んでしまいます。聞いて受け入れるというのは、御言葉の種が蒔かれて、それが育つことによって自分が帰られることを受け入れるということなのだと思います。
歴史学者の阿部謹也という先生が『自分の中に歴史を読む』という若い人向けの本を書いておられます。その中で阿部先生は、分かるというのはそれによって自分が変わることだ、と言っておられます。御言葉を聞いて受け入れるというのは、御言葉が分かるということでしょう。それは知的に分かるということ以上のこと、その御言葉の種によって土地である私が変革されることです。主はそのように御言葉を聞くことを、ご自身の弟子である私たちに求めておられます。
主イエスのたとえ話です。種を蒔く人の蒔いた種が、ある種は道端に落ちて烏に食べられ、他の種は石地の浅い土に落ちて日照りに枯れてしまい、別の種は茨の中に落ちたので茨に邪魔されて枯れてしまいました。しかし良い土地に落ちた種は芽生え、育って実を結び、あるものは30倍、あるものは60倍、あるものは100倍になった、という話です。
これは、たとえ話のたとえ話です。つまり、たとえ話とはどういうものなのかを説明した話です。言うなれば、主イエスご自身による、たとえ話の種明かしのようなものであると思います。
13節以下で詳しくその意味を説明しておられる。種を蒔く人は神の言葉を幕。道端のものとは、御言葉がまかれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て御言葉を奪い取ってしまう者。石地の人とは、御言葉を聞くとすぐに喜んで受け入れるが、自分に根がないので、苦難や迫害のためにすぐに躓いてしまう者。茨の中に落ちた者は、御言葉を聞くが、世の重い患いや富の誘惑、その他のいろいろな欲望のために御言葉を負債で実を結ばない。そして、「良い土地に落ちた者とは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は30倍、ある者は60倍、ある者は100倍の実を結ぶ」と言われます。
やはり、一番大切なのは、良い土地に結んだ種だと思います。良い土地に落ちた種とは、「御言葉を聞いて受け入れる人たち」と主はおっしゃいました。御言葉を聞くだけでなく、受け入れる。聞くだけで済ましてしまうなら、烏が来て食べてしまいます。自分の中に根を張ることを拒めば、すぐに枯れてしまいます。御言葉の種も聞くけど他にも依り頼んでいる時代精神があるならば、それが邪魔をして結局は御言葉をのみ込んでしまいます。聞いて受け入れるというのは、御言葉の種が蒔かれて、それが育つことによって自分が帰られることを受け入れるということなのだと思います。
歴史学者の阿部謹也という先生が『自分の中に歴史を読む』という若い人向けの本を書いておられます。その中で阿部先生は、分かるというのはそれによって自分が変わることだ、と言っておられます。御言葉を聞いて受け入れるというのは、御言葉が分かるということでしょう。それは知的に分かるということ以上のこと、その御言葉の種によって土地である私が変革されることです。主はそのように御言葉を聞くことを、ご自身の弟子である私たちに求めておられます。