2020年3月22日日曜日

2020年3月22日(マルコによる福音書4:21〜41)

マルコによる福音書4:21~41;
「また、イエスは言われた。『灯を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められているもので、明るみに出ないものはない。聞く耳のある者は聞きなさい。』」
ほとんど同じ譬えがマタイによる福音書にも登場していますが、意味するところは随分と違います。マタイでは私たちの良い行いについての話ですが、このマルコ福音書では、主イエスが話しておられる神の国について、今は秘められているが必ず人々にそれが明らかになるときが来る、という話になっています。神の国は「秘儀(11節)」です。秘儀は秘密(ミステリー)のことです。しかし、それは必ず明かされる秘密です。
それでは、いかなる秘密なのか。ここで主イエスは二つの種の譬え話をしておられる。最初の譬えは、地に蒔かれた種は蒔いた人も知らないうちに芽を出して成長する。種を蒔いた人にも、種がどうして成長するのかは分からない。地は自ずから実を結ばせる。神の国はそのようなものだ、という話です。種の成長の様子としての意味は分かりますが、だから何なのかがよく分からない話のような気がします。どういうことなのでしょうか。
もう一つの譬えもやはり種の話ですが、こちらはからし種。それは小さな種粒です。ごまよりもっと小さい。誇りのような種ですが、「蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る」。そういう話です。
もともと、これらの譬えは、神の国のミステリーは必ず明かされるミステリーだ、という話から始まっていました。神の国は、蒔かれるときは小さな種粒のように小さい。ほとんど埃のような小ささです。種というのは、やはり四つの種の譬えと同じように、神様の御言葉のことでしょう。それは人の目には殆どとまりません。しかし、それが成長すると空の鳥が巣を作れるほどに大きな枝を張ります。誰もが安心して休める場所になることができる。しかし、その成長は、種を蒔いた人でさえも知りません。種(神の言葉)そのものが生来持っている力によって、必ず神の国は空のあらゆる取りのために枝を張るものになる。主イエスはそうおっしゃいます。
神様の御言葉の力は、私たちには謎です。神様の御業だからです。だから、それが成長して生まれる神の国は、私たちも、私たちの隣人をも安心することのできる、大きな枝を張ります。私たちの教会も、主イエス様にあってそのような一つの枝としていただいていることを信じます。

2024年12月26日の聖句

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