2020年5月11日月曜日

2020年5月11日(ルカによる福音書12:35〜59)

ルカによる福音書12:35~59
「腰に帯を締め、灯をともしていなさい。主人が婚礼から帰って来て戸を叩いたら、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。よく言っておく。主人は帯を締めて、その僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕をしてくれる。」
コロナのことで毎日騒がされていますので、それに対する万全の備え、これ以上の不測の事態が起きたときのためのしっかりと下準備をしなければならないという強迫観念に駆られます。確かにそういう準備も大切ですが、それ以上に、私たちは何の準備をし、誰を待っているのかを知ることが大切であると思います。
主イエス・キリストは、私たちが本当に待つべきは、私たちのところへ帰ってこられる主人だ、と言われます。主人というのは主イエス・キリストご自身のことでしょう。私たちは再び来られるキリストを待っています。私たちの人生の照準は、コロナの感染症の恐れや、その他の命の厳しさに合わせるのではなく、再び来られるキリストに合わせる。それがキリストを信じて生きる、ということです。
私たちは家の僕。主人の帰りを待つ僕です。僕の本分は主人に仕えることです。主人が帰ってきたときに食事をしていただき、快適にくつろいでいただくために、留守の間も家を管理します。もしも僕としてのその本分を忘れてしまったら、家をわが物顔で荒らし、ほかの僕に横柄に振る舞い、主人の帰りを待ちわびるのではなく留守を喜ぶ悪い僕になってしまいます。主人の帰りを待って準備をし、目を覚まして主人を待ちわびる僕のために、帰って来た主人は自ら彼のための給仕をして食事を与えてくれるだろうと、イエスは言われるのです。破格の待遇です。主人が私たちのための僕になってくださると言うのですから。
疲れる毎日で、いつまでこの状況が続くのかと厭になってしまいます。残念ながら、短くはなさそうです。しかし私たちが本当に待ちわびているのは、「いつもどおりの日常」や「安心できる毎日」以上のもの、キリストの帰還です。主人の帰りという大いなる目標に向かっている。私たちの毎日の小さな営みも、キリストの帰りを待つ僕のわざとして、祝福の中に置かれています。

2025年1月15日の聖句

姦淫してはならない。(出エジプト記20:14) 夫は妻を蔑ろにしてはならない。妻も夫を蔑ろにしてはならない。(1コリント7:3) 姦淫というと、浮気や不倫という言葉とすぐに結びついて考えられます。しかし単にそれだけではなく、聖書はもっと積極的にこのことを考えているように思います。...