2020年6月3日水曜日

2020年6月3日(使徒言行録2:25〜47)

使徒言行録2:25~47
「だから、イスラエルの家はみな、はっきりと知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」
ペンテコステの日の使徒ペトロの説教、しかもその最後の言葉です。イエスは主であり、メシアである。教会の語るメッセージを一区に集中させるならば、これに尽きます。神は私たちが十字架につけたイエスを主、またメシアとなさった。すると、人々は問います。「兄弟たち、私たちは何をすべきでしょうか」と。ペトロは答えました。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、聖霊の賜物を受けるでしょう。」
「悔い改める」というのは、聖書では、向きを変えることだと言われます。自分がしてしまったことを講解するとか、その結果自己嫌悪に陥るとか、あるいは反省するということとも少し違います。生き方の向きを変える。これまでと違う生き方を始めることを意味します。主イエス・キリストとで会ったとき、私たちの生き方が変わります。それは、ペトロが更に言葉を重ねて「邪悪なこの時代から救われなさい」と言ったとおり、この時代の精神との決別を意味します。
今の状況は、ウイルスという一つの被造物、しかも私たちの力ではコントロールできない被造物の力によって、私たちの造ってきた社会がテストされているという面があると思います。徹底したマネー主義、自己責任主義、排外主義、どれも、ウイルスを前にして何の力もありませんでした。しかし、今まさに、力が無い上に多くの人の犠牲の上で成り立ってきた社会のあり方に、何の反省もなしに戻ろうとしているように思います。「新しい日常を取り戻す」というかけ声と共に。「邪悪なこの時代から救われなさい」というのは、私たちが独善的に社会を裁き、見下し、半分世捨て人のように世間に世間への関心を捨てるということではありません。私たちはこの世界の中で、悔い改めて洗礼を受けたキリスト者として生き始めました。主イエス・キリストの後ろについていくキリストの弟子になりました。そのために、キリストが聖霊を与えてくださったのです。
そういう新しい生き方が、最初の時代の教会に現実化していました。「信じた者たちは皆一つになって、すべての者を共有にし、財産や持ち物を売っては、必要に応じて、皆がそれを分け合った。」もちろん、2000年前と今とでは社会制度も違うので、文字通りに同じことをするということは不可能です。しかし、ここには今の時代精神に対抗するパワーがあります。心を一つにし、パンを裂き(聖餐)、神を賛美する(礼拝)共同体がこの世界にあるという事実は、神の福音がこの世界に向けられているという証拠に他ならないのです。

2024年4月26日の聖句

神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ人間のすべてである。(コヘレト12:13) (イエスの言葉)「第一の戒めは、これである。『聞け、イスラエルよ。私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の戒めは...