2020年8月12日水曜日

2020年8月12日(コリントの信徒への手紙一11)

コリントの信徒への手紙一11
「私があなたがたに伝えたことは、私自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りを献げてそれを裂き、言われました。『これは、あなたがたのための私の体である。私の記念としてこのように行いなさい。』食事の後、杯も同じようにして言われました。『この杯は、私の血による新しい契約である。飲む度に、私の記念としてこれを行いなさい。』だから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲む度に、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」
主イエス・キリストが定めてくださった聖餐の制定語として、私たちの教会でも、聖餐の度に朗読している聖書の御言葉です。「私の記念としてこのように行いなさい」と言われています。「このように」というのは、何を意味しているのでしょうか?
聖餐は、主イエスが十字架にかかる前の晩に過越の食事を弟子たちと共になさったこと、その時に主イエスがパンを取って祝福し、これを裂いて渡されたこと、そして杯を取って感謝の祈りを唱えて弟子たちに渡されたことを記念して祝います。主が十字架の上で裂いたお体としてのパンを、十字架に流した血としての杯を頂きます。そのことを考えると、主イエスがしてくださったようにパンを取って祝福して裂くという所作を指して「このように行いなさい」とおっしゃったのだ、と考えることができます。
ただ、それだけではないのだと思います。主イエスの食卓には、ユダもいました。ペトロもいました。彼らのために肉を裂き血を流すと主はおっしゃいました。「このように」といういのは、そういう食卓のすべてを指しているのだと思います。
だから、コリント教会に対して、パウロはいろいろな人が共に食卓を囲むことを大事にするようにと言いました。コリント教会には、奴隷もいましたし、奴隷の主人もいました。男も女もいました。ユダヤ人もギリシア人もいました。いろいろな人がいて、しかし結局分派争いをしてしまって、誰がいちばん偉いのかと言い争っていました。しかし、「それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることになりません」とパウロは言います。皆が心を合わせて一緒に食事をすることを大切にしてほしいとパウロは言います。そういうことの全部を含めて、『このように行いなさい』ということなのではないでしょうか。
主の食卓にはいろいろな人がいます。まことに多様です。しかし、ただ一つ、主が私たちのために肉を裂き、血を流してくださったという事実だけがある。その恵みの事実だけが私たちを一つに結びつけます。私たちは、主イエス・キリストの食卓によって一つに結びつけられる。私たちは、今、この食卓を待望する忍耐の時を歩んでいます。この忍耐の時、私たちはこの時でなければ経験し得ない特別な恵みを頂くに違いありません。

2024年3月29日の聖句

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