2020年8月8日土曜日

2020年8月8日(コリントの信徒への手紙一7:25〜40)

コリントの信徒への手紙一7:25~40
「きょうだいたち、私がこう言うのは、時が縮まっているからです。これからは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、ものを買う人は持たない人のように、この世を利用する人は利用しない人のようになりなさい。この世の有り様は過ぎ去るからです。」
時が縮まっている、と聖書は言います。イエス・キリストが再び来る日が近づいている。歴史が完成する日が近づいている。時が縮まっている。それが、聖書の時間観です。
聖書は、時間には始めと終わりがあると見ています。神が始めたこの世界の時間は、やがて終わりの時を迎える。円環的に歴史が繰り返すとは考えません。あるいは、時間を認識する人間がいつか滅びても、いつまでもだらだらと続いていくとも考えていません。神がお始めになったものは、神が完成させる。時間は、やがて来たる完成の時に向かっています。時は縮まっています。
最初の計画では今頃オリンピックをしているはずだったのでしょうが、それは実現しませんでした。出場予定だった、あるいはそれを目指していた選手たちにとっては厳しいことだと思います。結局いつ開催できるのか分かりません。選手にとっては、肉体的にも精神的にもどうやって「その時」を迎えれば良いのか、目標を見失うということだって起こりうると思います。キリスト者としての私たちも、それと似ているところがあるかも知れません。パウロも、当時の教会も、すぐにでも主イエスは来られると信じていました。しかし、なかなかキリストが来られる「その時」が来ない。主を待ち望む信仰に生きるモチベーションを維持するのは厳しいことです。
しかし、「その時」は必ず来ます。オリンピックとは違って、主が再び来られるその時は、予め○年○月○日ですというアナウンスができません。ただ一つ私たちが知っているのは、時が縮まっているという聖書の約束だけです。そして、私たちが、主を礼拝し、聖書の御言葉を聞くとき、現に主イエスと出会っているということは、揺るぎない事実です。その意味で、私たちは日々主をお迎えしています。
だから、私たちは主イエス・キリストをお迎えする者として、今日という日の歩みを整えたいと思います。この世界の出来事や私たちの人生の事柄は、主にあって、新しい祝福の中に置かれています。私たちの人生の事柄を主にお委ねし、この方の祝福の内にあることを信じて、今日私と出会ってくださる主イエス・キリストの前に、誠実に生きていきたいと願います。

2024年4月25日の聖句

救いは主のもの。 あなたの民の上に祝福を。(詩編3:9) イエスは手を上げて彼らを祝福された。(ルカ24:50) 主イエス・キリストは復活して40日間弟子たちと共におられ、その後、天に昇って行かれました。その時、主イエスは手を上げて弟子たちを祝福し、その恰好のままで天に上げられて...