2020年9月6日日曜日

2020年9月6日(ガラテヤの信徒への手紙6)

ガラテヤの信徒への手紙6
「肉において見栄を張りたい人たちがあなたがたに割礼を強いています。彼らはただ、キリストの十字架のために迫害を受けたくないだけなのです。実際、割礼のある者自身、律法を守っていないのに、あなたたがたに割礼を望んでいるのは、あなたがたの肉を誇りたいからです。しかし、この私には、私たちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この方を通して、世界は私に対し、また私も世界に対して十字架につけられたのです。割礼の有無は問題ではなく、大事なのは、新しく造られることです。」
パウロは言います。イエス・キリストを通して、世界は私に対し、また私も世界に対して十字架につけられたのです。この手紙の第2章19節には「私はキリストと共に十字架につけられました」と書かれています。十字架につけられたというのは、そこで死んだという意味でしょう。私はキリストと共に十字架につけられて、世界に対して死んだ。それだけではなく、世界もその時私に対して死んだ。だから、この世界に対して見栄を張るために、私は今や生きてはいないとパウロは言います。
見栄を張りたいというのは、本当に厄介な感情です。自分を大きく見せたい、実際の自分よりも偉大に見せたい。見栄というのはそういうものだと思います。この手紙でずっと問題として指摘されてきた割礼も、結局は見栄にすぎないとパウロは言います。人からよく思われたいだけ。しかも、割礼を望んでいるのはガラテヤ教会の人たち自身ではなく、ユダヤ人サークルの中で誇りたいユダヤ人キリスト者だった。パウロは、そのような見栄から自由になろうと再三にわたってこの手紙で伝えてきたのでした。
割礼そのものは、日本の私たちの信仰生活の上では何の意味も持ちません。私たちにとってはユダヤ人や最初の世代の異邦人教会と同じ重みを持っていない。だから、全く同じ問題で悩んでいる人は、今の日本で生活をしているキリスト者には恐らくいないでしょう。しかし、同じ本質を持った事柄は、常に私たちに問われているのだと思います。今日の箇所では「見栄」と言っていましたが、私たちの「プライド」には、私たちをキリストの福音から引き離してしまうことがあるのではないでしょうか。もちろん何の誇りもないということも不健全です。しかし、私たちにはキリストの十字架のほかには誇りとなるものがないのです。私には、私のために十字架にかかってくださったキリストがすべて。神が私たちをキリストにあって新しく造ってくださいました。神の子として生かされる新しい一日が、今や始まっています。

2024年4月20日の聖句

私は必ずあなたを助け出す。剣に倒れることはない。あなたの命はあなたの戦利品となる。あなたが私を信頼したからであるーー主の仰せ。(エレミヤ39:18) イエスはその犯罪人に、「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言われた。(ルカ23:43) 主イエスが十字架の上で...