ヨハネによる福音書1:1~28
「言の内に成ったものは、命であった。この命は人の光であった。光や闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった。」「まことの光があったその光は世に来て、すべての人を照らすのである。」
初めに神と共にあり、神ご自身であった言。その言が肉となって、私たちの間に宿られた。すなわち、主イエス・キリストです。その言は、光であった、しかも命である光であると使徒ヨハネは私たちに証言しています。
私たちはイエス・キリストという命である光に照らされている。闇の中に潜む私たちが今や光に照らされている。そのように言います。
詩篇第23編を見ると、「たとえ死の陰の谷を歩むとも、私は災いを恐れない」という言葉に出会います。「たとえ」と言っていますが、この詩編を読んですぐに明らかになることは、この「たとえ」は起こりそうもない仮定の話ではなく、この詩編作者が現に生きている場所が死の陰の谷そのものであるということです。2節の「緑の野」という言葉は、原語のニュアンスでは荒れ野に僅かに草が生えているような場所を指すそうです。ハイジが出て来るような豊かな緑地ではない。水も涸れた荒れ野に僅かに茂る草。すぐに尽きてしまいそうなかすかな水。しかし、神は私の羊飼いとして確かに私を養い、草と水によって生かし、私を死の陰の谷にあっても生かしてくださっている。この死の陰の谷に、主なる神様ご自身の光が差している。私はその光に照らされている。
ヨハネが私たちに証言しているイエス・キリストという光は、煌々とした、まぶしい光ではないと思います。かすかな、しかし確かな光です。この光に照らされるとき、自分が命の祝福にあずかっていることに私たちは気づく。キリストの命の光は、暗闇の中でなお光り続けている。
この光は、すべての人を照らします。この光から除外されている人はいません。神様は私たちすべての人を命の光によって照らしています。だから、恐れず、顔を背けることなく、キリストの光の中を歩んでいきましょう。ここに、私たちの命の祝福があるのです。
「言の内に成ったものは、命であった。この命は人の光であった。光や闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった。」「まことの光があったその光は世に来て、すべての人を照らすのである。」
初めに神と共にあり、神ご自身であった言。その言が肉となって、私たちの間に宿られた。すなわち、主イエス・キリストです。その言は、光であった、しかも命である光であると使徒ヨハネは私たちに証言しています。
私たちはイエス・キリストという命である光に照らされている。闇の中に潜む私たちが今や光に照らされている。そのように言います。
詩篇第23編を見ると、「たとえ死の陰の谷を歩むとも、私は災いを恐れない」という言葉に出会います。「たとえ」と言っていますが、この詩編を読んですぐに明らかになることは、この「たとえ」は起こりそうもない仮定の話ではなく、この詩編作者が現に生きている場所が死の陰の谷そのものであるということです。2節の「緑の野」という言葉は、原語のニュアンスでは荒れ野に僅かに草が生えているような場所を指すそうです。ハイジが出て来るような豊かな緑地ではない。水も涸れた荒れ野に僅かに茂る草。すぐに尽きてしまいそうなかすかな水。しかし、神は私の羊飼いとして確かに私を養い、草と水によって生かし、私を死の陰の谷にあっても生かしてくださっている。この死の陰の谷に、主なる神様ご自身の光が差している。私はその光に照らされている。
ヨハネが私たちに証言しているイエス・キリストという光は、煌々とした、まぶしい光ではないと思います。かすかな、しかし確かな光です。この光に照らされるとき、自分が命の祝福にあずかっていることに私たちは気づく。キリストの命の光は、暗闇の中でなお光り続けている。
この光は、すべての人を照らします。この光から除外されている人はいません。神様は私たちすべての人を命の光によって照らしています。だから、恐れず、顔を背けることなく、キリストの光の中を歩んでいきましょう。ここに、私たちの命の祝福があるのです。