2020年10月19日月曜日

2020年10月19日(ヨハネによる福音書1:29〜51)

ヨハネによる福音書1:29~51
「またヨハネは証しして言った。『私は、霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。私はこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるようにと、私をお遣わしになった方が私に言われた。『霊が降って、ある人に留まるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である。』私はそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。』」

洗礼者ヨハネは、主イエスについて「私はこの方を知らなかった」と言っています。私は今日、この言葉がとても心に残りました。今、日曜日の礼拝でもヨハネによる福音書を読んでいます。日曜日はもう第8章まで進んでいますが、話が進んできて、ファリサイ派や祭司長たちの主イエスへの憎しみが激しくなってきました。彼らは、自分たちはメシアがいかなる方であるのか、あるいはいかなる方であるべきなのかをよく知っていると考えています。自分たちはよくわきまえている、よく分かっている。それが基本的な態度であるのだと思います。そして、メシアとはいかなる存在かということだけではなく、イエスのことも、ガリラヤ出身の男だ、だからメシアであるはずがないと言って、見下している。メシアのことも、イエスのことも自分たちはよく知っていると思っています
ところが、洗礼者ヨハネは「私はこの方をよく知らなかった」と言っています。自分が知らないということを、この人は認めている。ファリサイ派や祭司長とは対照的なスタンスであると思うのです。
ヨハネは血縁上は主イエスの親戚ですし、ルカによる福音書を読んでみると、お母さんのお腹の中にいた頃からの付き合いです。主イエスのことを全く知らなかった、そんな人のことは聞いたこともない、という間柄ではありません。しかし、それまでの自分の知識や先入観を捨てて、私はこの方がいかなる方なのかを知らないと言うことができた。それは、ヨハネのへりくだりだったのではないかと思います。
私はこの方を知らない。しかし、神が教えてくださった。神の霊が降り、この方に留まった。そういう方が現れたらその方こそ神の子だと私は神から教えられていた。だから、この方こそ神の子。この方こそ私たちの救い主。ヨハネはすなおにそのことを信じたのです。自分の考えに凝り固まらないこと、素直に神様を信じること、それがどんなに大切なことなのかとこの人を見ていると教えられます。
私たちも、今日、素直な気持ちで聖書を読み、前提なしに福音に耳を傾けましょう。そこには、私たちの思い込みをはるかに超えたすばらし神の愛の言葉が響いています。

2024年3月28日の聖句

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