ヨハネによる福音書4:31~54
「王の役人は、『主よ、子どもが死なないうちに、お出でください』と言った。イエスはい言われた。『帰りなさい。あなたの息子は生きている。』その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。そこで、息子が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、『昨日の午後一時に熱が下がりました』と言った。それが、イエスが『あなたの息子は生きている』と言われたのと同じ時刻であったことを、父親は知った。そして、彼も死の家族もこぞって信じた。」
エルサレムに行き、サマリアを通って北部のガリラヤ地方に戻ってきた主イエス。最初の奇跡を行ったガリラヤのカナへ行きました。そこにカファルナウムにいた王の役人が下って来た。病気の息子を助けてくださいと主イエスに願ったのです。少しやりとりをした後、主イエスはこの父親に言います。「あなたの息子は生きている」と。父親はその言葉を信じて、家に帰りました。
これは、私たちが日曜日に礼拝で経験しているのと同じ出来事なのではないでしょうか。私たちも、家族だったり自分自身だったり、いろいろな重荷を抱えながら主イエスの御許に進み出ていきます。「主よ、子どもが死なないうちに、お出でください」というこの父親の祈りと同じ心で、私たちも祈ります。主イエスはその祈りを無視なさるのではなく、私たちに御声を聞かせてくださいます。「帰りなさい。あなたの息子は生きている。」これは、私たちが礼拝で聖書を開き、説教を聞き、賛美を献げ、祝福を受けて礼拝からまた出発していく、そういうプロセスの中で私たちが受ける福音宣言です。
キリストが私たちに告げてくださるのは、「あなたの息子は生きている」という命の宣言です。呪いの言葉ではない。分断の言葉や憎しみの言葉でもない。キリストが命を与えてくださる祝福の言葉が、私たちの礼拝で耳にする言葉です。
私たちは、キリストの命にあずかっています。だから、この父親と、彼の家族と同じように、共にキリストを信じましょう。私たちを生かしてくださる方、私たちを愛し、私たちを慈しんでくださるお方を。あなたの今日一日も、このお方の命の言葉によって、祝福の内におかれています。
「王の役人は、『主よ、子どもが死なないうちに、お出でください』と言った。イエスはい言われた。『帰りなさい。あなたの息子は生きている。』その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。そこで、息子が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、『昨日の午後一時に熱が下がりました』と言った。それが、イエスが『あなたの息子は生きている』と言われたのと同じ時刻であったことを、父親は知った。そして、彼も死の家族もこぞって信じた。」
エルサレムに行き、サマリアを通って北部のガリラヤ地方に戻ってきた主イエス。最初の奇跡を行ったガリラヤのカナへ行きました。そこにカファルナウムにいた王の役人が下って来た。病気の息子を助けてくださいと主イエスに願ったのです。少しやりとりをした後、主イエスはこの父親に言います。「あなたの息子は生きている」と。父親はその言葉を信じて、家に帰りました。
これは、私たちが日曜日に礼拝で経験しているのと同じ出来事なのではないでしょうか。私たちも、家族だったり自分自身だったり、いろいろな重荷を抱えながら主イエスの御許に進み出ていきます。「主よ、子どもが死なないうちに、お出でください」というこの父親の祈りと同じ心で、私たちも祈ります。主イエスはその祈りを無視なさるのではなく、私たちに御声を聞かせてくださいます。「帰りなさい。あなたの息子は生きている。」これは、私たちが礼拝で聖書を開き、説教を聞き、賛美を献げ、祝福を受けて礼拝からまた出発していく、そういうプロセスの中で私たちが受ける福音宣言です。
キリストが私たちに告げてくださるのは、「あなたの息子は生きている」という命の宣言です。呪いの言葉ではない。分断の言葉や憎しみの言葉でもない。キリストが命を与えてくださる祝福の言葉が、私たちの礼拝で耳にする言葉です。
私たちは、キリストの命にあずかっています。だから、この父親と、彼の家族と同じように、共にキリストを信じましょう。私たちを生かしてくださる方、私たちを愛し、私たちを慈しんでくださるお方を。あなたの今日一日も、このお方の命の言葉によって、祝福の内におかれています。