2020年11月1日日曜日

2020年11月1日(ヨハネによる福音書9:1〜23)

ヨハネによる福音書9:1~23
「私は、世にいる間、世の光である。」

主イエス・キリストは世の光。この世を照らす。第1章では主イエスについてこのように言っていました。「言葉の内に成ったものは、、命であった。この命は人を照らす光であった。光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった。」イエス・キリストという光は、暗闇の中で輝いています。この世が闇だから、それを照らすために。
この第9章には生まれつき目の見えない人が登場しています。弟子たちはイエスに尋ねました。「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」残酷な問いです。しかし、私たちの間ではありふれた問いでもあると思います。そこにいる一人の人の苦しみや悲しみを無視して、自分の世界を平穏に保ちすべてをうまいこと説明してみせるための材料にしてしまう。こういうところにも端的なかたちでこの世の闇の有り様が表出しているのではないでしょうか。
イエス・キリストは、私たちの思いやりのなさが生み出す世の闇の中で輝く光です。私たちを照らし、光の中におくために、キリストという光が輝いています。
主イエスは言われます。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」この言葉こそ、私たちを照らす光ではないでしょうか。罪の報いのために自分に不幸が見舞っているのではないか。私たちはそう思ってしまう。それくらいしか、この苦しみに説明をつけようがない。あるいはあの人が不幸なのは自業自得だと言ってのける。自分は違うと思い込むために。しかし、キリストはまったく新しい光を当ててくださいます。「神の業がこの人に現れるため」と。
この人は見えませんでした。しかしキリストと出会って、見えるようになりました。この人は生まれつき闇の中で生きてきました。しかしキリストという光の中で見ることができるようになりました。これは、私たちの物語です。私たちのためにも、神の業は現れる。しかしそれは不治の病が治るということだとは限りません。しかし肝心なことは、その出来事を通して私たちがキリストという光の中で生かされていることに気付き、神の業の中に自分を発見することです。私たちの今日一日も、キリストという光の中に置かれています。

2024年12月27日の聖句

遠く地の果てまで、すべてのものが我らの神の救いを見た。(詩編98:3) また、幸いなる希望、すなわち大いなる神であり、私たちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。(テトス2:13) すてきな言葉です。「幸いなる希望」と言っています。私たちにとって...