ルカによる福音書1:26~56
私の魂は主を崇め
私の霊は救い主である神を喜びたたえます。
この卑しい仕え女
目を留めてくださったからです。
今から後、いつの世の人も
私を幸いな者と言うでしょう。
マリアの賛歌。賛美歌の中ではマニフィカートと呼ばれ、世々のキリスト者たちがマリアのこの言葉に心を合わせ、自身の祈りとして神に献げてきました。マニフィカートというのは、この賛歌のラテン語訳の最初の単語です。日本語では「崇める」と訳されている言葉。直訳すると「大きくする」という意味です。神を崇める、神を賛美するというのは、神さまを大きくするということです。私たちはいつの間にか神さまを小さくし、自分の手のひらに乗る、自分で把握可能な神さまにしてしまいます。しかし、神を賛美する者は、神が大きな方だと知っています。自分が「大きい」と思っているよりもなお大きく、自分の予測を超える方だということを受け入れます。
神さまは、この私にも目を留めてくださる。マリアは自分を「卑しい仕え女」と呼びます。「仕え女」と訳されている言葉は、直訳すれば「女奴隷」です。こういう言葉は、現代ではあまり好まれません。一人の女性に対して「卑しい」だとか「奴隷」だとかいうのはどうなのか、と言うのです。私にはポリティカルコレクトネスのようなものを過剰に気にしすぎているように感じます。マリア自身の言葉なのですから。そしてマリアは神さまの大きさ、偉大さに圧倒されて、自分の小ささを知り、この聖なるお方の前で卑しい私であることを喜んで告白したに違いない。「私は主のはしためです」と言ったマリアの信仰を、私たちの信仰にしたいと願っています。
主が目を留めてくださったのだから私は幸いな者。マリアはそう言いました。これからマリアは実際に出産を迎えるわけで、その時にはもうすでに人口調査のための旅があり、飼い葉桶に乳飲み子を寝かせねばならなかったのであり、あるいは最後には十字架にかけられたイエスを見なければならなかった。マリアは悲しみをたくさん知ることになる。それでも、マリアは幸いな人です。神が目を留めてくださったから。この幸いはマリア一人のものではなく、私たちも同じ幸いに与っていると私は信じています。神はこの私にも目を留めてくださっている。私たちもマリアと共に歌います。「私の魂は主を崇め・・・」と。
私の魂は主を崇め
私の霊は救い主である神を喜びたたえます。
この卑しい仕え女
目を留めてくださったからです。
今から後、いつの世の人も
私を幸いな者と言うでしょう。
マリアの賛歌。賛美歌の中ではマニフィカートと呼ばれ、世々のキリスト者たちがマリアのこの言葉に心を合わせ、自身の祈りとして神に献げてきました。マニフィカートというのは、この賛歌のラテン語訳の最初の単語です。日本語では「崇める」と訳されている言葉。直訳すると「大きくする」という意味です。神を崇める、神を賛美するというのは、神さまを大きくするということです。私たちはいつの間にか神さまを小さくし、自分の手のひらに乗る、自分で把握可能な神さまにしてしまいます。しかし、神を賛美する者は、神が大きな方だと知っています。自分が「大きい」と思っているよりもなお大きく、自分の予測を超える方だということを受け入れます。
神さまは、この私にも目を留めてくださる。マリアは自分を「卑しい仕え女」と呼びます。「仕え女」と訳されている言葉は、直訳すれば「女奴隷」です。こういう言葉は、現代ではあまり好まれません。一人の女性に対して「卑しい」だとか「奴隷」だとかいうのはどうなのか、と言うのです。私にはポリティカルコレクトネスのようなものを過剰に気にしすぎているように感じます。マリア自身の言葉なのですから。そしてマリアは神さまの大きさ、偉大さに圧倒されて、自分の小ささを知り、この聖なるお方の前で卑しい私であることを喜んで告白したに違いない。「私は主のはしためです」と言ったマリアの信仰を、私たちの信仰にしたいと願っています。
主が目を留めてくださったのだから私は幸いな者。マリアはそう言いました。これからマリアは実際に出産を迎えるわけで、その時にはもうすでに人口調査のための旅があり、飼い葉桶に乳飲み子を寝かせねばならなかったのであり、あるいは最後には十字架にかけられたイエスを見なければならなかった。マリアは悲しみをたくさん知ることになる。それでも、マリアは幸いな人です。神が目を留めてくださったから。この幸いはマリア一人のものではなく、私たちも同じ幸いに与っていると私は信じています。神はこの私にも目を留めてくださっている。私たちもマリアと共に歌います。「私の魂は主を崇め・・・」と。