2020年12月24日木曜日

2020年12月24日(ルカによる福音書1:57〜80)

ルカによる福音書1:57~80
幼子よ、あなたはいと高き方の預言者と呼ばれる。
主に先立って行き、その道を整え
主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。
これは我らの神の憐れみの心による。
この憐れみによって高い所から曙の光が我らを訪れ
暗闇と死の陰に座している者たちを照らし
 我らの足を平和の道に導く。

洗礼者ヨハネが生まれたときの父ザカリア祈りの言葉です。これも昨日読んだマリアのマニフィカートと同じように、ラテン語訳の冒頭からベネディクトゥス・ドミヌス・デウスと呼ばれています。例えば修道院などでは一日の祈りのための聖務日課というものが決まっていますが、その中でもベネディクトゥス・ドミヌス・デウスは朝の祈りに分類されています。上で引用した最後の部分が朝のイメージで語られているからなのでしょう。「この憐れみによって高い所から曙の光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの足を平和の道に導く。」朝にふさわしい、希望に満ちた言葉です。
ベネディクトゥス・ドミヌス・デウス。ラテン語で「主なる神はほめたたえられよ」。なぜ神を賛美するのか。神の救いの御業を賛美しています。ここに生まれた幼子がやがて成長して主イエスのための準備をすることになる。そのために「主の民に罪の赦しによる救いを告げ知らせ」ます。私たちを罪の闇から救うために来てくださるイエス・キリスト。このお方の前に悔い改め、へりくだった心を持って準備をするために、ヨハネは私たちの前に現れました。彼は罪の赦しの福音を宣べ伝えます。これは、神の憐れみの心によって始まりました。私たちがキリストの御許に立ち帰り、神の愛の中を生きることが、神さまの願っていてくださることなのです。
この憐れみによって、高い所から曙の光が私たちを訪れます。暗闇と死の陰に座している私たちを照らします。私はこの聖書の言葉が大好きです。朝の光に私たちは照らされている。主イエスが実際にお生まれになったのが何月何日なのかは、聖書に記録されていないので分かりません。イエスの時代からしばらく経って、教会がそれを祝おうとしたときに、冬至の時期を選びました。暗闇がいちばん深くなるとき、しかし、これから徐々に光に照らされ始めるとき。私たちは曙の光に照らされています。もう朝が来たのです。キリストの光の中に私たちも生かされているのです。

2024年12月27日の聖句

遠く地の果てまで、すべてのものが我らの神の救いを見た。(詩編98:3) また、幸いなる希望、すなわち大いなる神であり、私たちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。(テトス2:13) すてきな言葉です。「幸いなる希望」と言っています。私たちにとって...