2020年12月22日火曜日

2020年12月22日(ルカによる福音書1:1〜25)

ルカによる福音書1:1~25
ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアと言う人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトと言った。二人とも神の前に正しい人で、主の戒めと定めとを、みな落ち度なく守って生活していた。しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには子がなく、二人ともすでに年を取っていた。

ルカによる福音書はテオフィロという身分のある人物に主イエスの出来事を伝えるために書かれました。ルカは「順序正しく書いてあなたに献呈する」と言っています。そして、キリストの出来事の始まりとしてルカが最初に報告するのが洗礼者ヨハネの誕生の時のいきさつでした。ここに、福音が始まったのです。
ヨハネの両親の名はザカリアとエリサベト。この二人について、ルカは「二人とも神の前に正しい人で、主の戒めと定めとを、みな落ち度なく守って生活していた。しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには子がなく、二人ともすでに年を取っていた」と伝えています。私は、今回、この言葉はとても大切なことを伝えているように感じました。二人とも正しい人でした。主の戒めと定めを落ち度なく守っていました。しかし、彼らには子どもがいませんでした。この後の天使とのやりとりを読むと、彼らが子どもが与えられることを望んでいたことが窺われます。しかし彼らはすでに年を取っていましたから、もう何十年も前に諦めたことだったのでしょう。それでも彼らは主の前に正しく生きることをやめませんでした。主なる神様を信じ、神さまが命じた律法を守ることをやめませんでした。ザカリアとエリサベトにとって、神さまを信じることも神さまの戒めを守ることも、自分たちの願いが叶えられることの「代わり」ではなかったのです。
私たちは、自分の祈りが叶えられなかったり厭なことや不幸なことがあったりすると、神さまを信じる価値がないような気がしてしまいます。メリットがないのに神を信じる必要なんてあるのでしょうか?ザカリアとエリサベトにとって、神さまを信じることや従うことは、好いこととのトレードオフではなかったのです。
神さまがザカリアとエリサベトを選びザカリアのところにガブリエルがやって来たのは、彼らがただただ神に従う人であったからなのかもしれません。私たちは神さまがご褒美をくれるから信じるのではなく、報いがあるから従うのでもない。神さまは、もうすでに私たちに贈り物をくださっています。それに私たちが気づいていないだけで。ザカリアとエリサベトに始まる出来事はキリストの出来事の序章です。私たちに神がくださったかけがえのない贈り物、イエス・キリストの福音は、ここに始まっているのです。

2024年12月27日の聖句

遠く地の果てまで、すべてのものが我らの神の救いを見た。(詩編98:3) また、幸いなる希望、すなわち大いなる神であり、私たちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。(テトス2:13) すてきな言葉です。「幸いなる希望」と言っています。私たちにとって...