詩編19
天は神の栄光を語り
大空は御手の業を告げる。(1節)
私の口が語ることと心の思いとが
御前で喜ばれますように。
主よ、わが大岩、わが贖い主よ。(15節)
詩編19は一読して明らかなとおり、はっきりと前半と後半で分かれます。表題の1節は別として、2から7節では神がお造りになった自然世界が神の御業を語っているということを言っています。天も大空も、昼も夜も、神がお造りになった被造物です。イスラエルの周辺社会では、自然世界が人間を襲う脅威として神格化された力を持つと考えられていたようです。ところが、この詩編では自然世界は神に造られたものであり、それ自体が神格化されるのではなく、むしろ造り主なる神の御業を語ると言われています。
「(自然は)語ることもなく、言葉もなく、その声は聞こえない。その声は全地に、その言葉は世界の果てにまで及んだ。」言葉ならぬ言葉が響いている。その言葉というのは一体何を語っているのかと言えば、神の栄光であり、神の御業です。自然自体が擬人化されて何かをしゃべり出しているということではなく、神の創造の御業のしるしが、私たちに神の偉大さを証ししている、ということでしょう。
それに対して8節以下には自然の話はまったく出てきません。代わって、律法の話になっています。「主の律法は完全で、魂を生き返らせ」る。それは「蜜よりも、蜂の巣のしたたりよりも甘い」と言います。7節までと全然違う話になっています。それで、もともと別の詩編だったものが後代の人の手で一つにまとめられたのではないかと言われるほどです。しかし、簡単にそう決めつけることはできないと思います。
なぜなら、7節までも8節以降も、共通して「言葉」が主題になっていました。自然世界が語り出す言葉、そして律法が語る言葉です。自然世界は神の偉大さを賛美します。律法の言葉は私たちを真実な生き方に向かわせ、私たちの魂に命を与えます。主題は一貫していて、私たちが神さまの御言葉をどう聞いて、どうやってそれに従うのか、という話です。
最後「私の口が語ることと心の思いとが、御前で喜ばれますように」と言います。私自身の言葉も、自然や律法がそうであるように、神を証しするものとなり、また神に喜ばれるものとなりますように、と祈る。私たちは、今日、この世界の中でどのように神の言葉を聞き、それに従うのでしょうか。私たちの口は、今日、どのような言葉を口に上らせるのでしょうか。
天は神の栄光を語り
大空は御手の業を告げる。(1節)
私の口が語ることと心の思いとが
御前で喜ばれますように。
主よ、わが大岩、わが贖い主よ。(15節)
詩編19は一読して明らかなとおり、はっきりと前半と後半で分かれます。表題の1節は別として、2から7節では神がお造りになった自然世界が神の御業を語っているということを言っています。天も大空も、昼も夜も、神がお造りになった被造物です。イスラエルの周辺社会では、自然世界が人間を襲う脅威として神格化された力を持つと考えられていたようです。ところが、この詩編では自然世界は神に造られたものであり、それ自体が神格化されるのではなく、むしろ造り主なる神の御業を語ると言われています。
「(自然は)語ることもなく、言葉もなく、その声は聞こえない。その声は全地に、その言葉は世界の果てにまで及んだ。」言葉ならぬ言葉が響いている。その言葉というのは一体何を語っているのかと言えば、神の栄光であり、神の御業です。自然自体が擬人化されて何かをしゃべり出しているということではなく、神の創造の御業のしるしが、私たちに神の偉大さを証ししている、ということでしょう。
それに対して8節以下には自然の話はまったく出てきません。代わって、律法の話になっています。「主の律法は完全で、魂を生き返らせ」る。それは「蜜よりも、蜂の巣のしたたりよりも甘い」と言います。7節までと全然違う話になっています。それで、もともと別の詩編だったものが後代の人の手で一つにまとめられたのではないかと言われるほどです。しかし、簡単にそう決めつけることはできないと思います。
なぜなら、7節までも8節以降も、共通して「言葉」が主題になっていました。自然世界が語り出す言葉、そして律法が語る言葉です。自然世界は神の偉大さを賛美します。律法の言葉は私たちを真実な生き方に向かわせ、私たちの魂に命を与えます。主題は一貫していて、私たちが神さまの御言葉をどう聞いて、どうやってそれに従うのか、という話です。
最後「私の口が語ることと心の思いとが、御前で喜ばれますように」と言います。私自身の言葉も、自然や律法がそうであるように、神を証しするものとなり、また神に喜ばれるものとなりますように、と祈る。私たちは、今日、この世界の中でどのように神の言葉を聞き、それに従うのでしょうか。私たちの口は、今日、どのような言葉を口に上らせるのでしょうか。