2021年1月5日火曜日

2021年1月5日(詩編7)

詩編7
わが神、主よ、私は御もとに逃れました。
迫り来るすべての者から私を救い
  助けだしてください。(2節)
主よ、立ち上がってください、怒りに燃えて。
身を起こしてください
私を苦しめる者に激しい憤りをもって。
目を覚ましてください。私のために。(7節前半)

自分を苦しめる者がいる。その人は悪事を宿し、害悪をはらみ、偽りを生む。その人と自分との間を裁いてください、と祈る。この祈りの激しさにたじろいでしまう。自分はあまりこういう祈りをしない。「私を苦しめる者に激しい憤りをもって」身を起こし、その人を裁いてください、というのだ。
こういう祈りをしない代わりになにをするのか。恨んだり、無視したり、噂話をしたり。結局、自分でなんとか溜飲を下げるために小さな復讐をする。そして結局はあまりすっきりせずに、ますます恨みだけが募っていく・・・。
詩編はそのようなことをしない。はっきりと神に裁きを求め、神に復讐を求めるのだ。そうして自分の手から放してしまうことが、本当は健全なのではないだろうか。「彼は穴を掘り、さらに深くし、自ら掘った滅びの穴に落ちる。その労苦は彼の頭上に帰り、暴虐は頭に下る。」そういう日が来ることを、私がこの目で見ることはないのかもしれない。私が死んだ後かもしれないし、あるいは相手が生きている間には起きないかもしれない。それは、その人と神さまとの間の問題になってしまっているので、私は関与できない。神がお裁きになるとはそういうことなのだろう。私としては、手放してしまう。そうしたときに気づくのは、手放した者は自由であることだ。もう憎しみや恨みに支配されることもなく、神の御手を信じ、私は私の人生を生きる。神が正しいことをなさる。「その義のゆえに、私は主に感謝を献げます。」

2024年12月26日の聖句

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