2021年2月3日水曜日

2021年2月3日(詩編39)

詩編39
主よ、知らせてください、私の終わりを。
私の日々の長さ、それがどれほどであるかを。
私は知りたい、いかに私がはかないかを。
そうです
あなたが私に与えたのは手の幅ほどの日々。
私の寿命など、あなたの前では無に等しい。
確かに立っているようでも
  人間は皆空しい。(5~6節)

この詩編は積みに苦しむ人の祈りの言葉です。特に、自分の口が犯した過ちです。口で罪を犯さないように、善いことも悪いことも何もしゃべらずに沈黙した。しかし、うまくいきませんでした。「私の苦痛は募り、私の内で心が熱くたぎった。私の呻きで火は燃え上がり、私の舌で私は語った」(3~4節) 。結局我慢しようにもすることができず、舌で語りだしたら罪を犯してしまった、ということなのだと思います。
新約聖書でも「舌は制することのできない悪で、死をもたらす毒に満ちています」(ヤコブ3:8)と書かれています。本当によく分かる言葉です。これまでどれほどたくさんの過ちを、舌によって犯してきたことか……。舌を制御したいと何度願い、試みたか。しかし結局失敗に終わってしまう。舌は小さな器官ですが、不義の世界をなしています。
そのような罪に打ち震える者が祈るのです。「主よ、知らせてください、私の終わりを」と。私の人生は短く、儚く、私は本当に無に等しいものに過ぎない。だから、主よ、私の舌が犯してきた罪を見続けることなく私を助けてください、と祈ります。
自分の舌が重ねてきた過ちが本当に重くなるのは、死を迎えるときなのかもしれません。許しを請わなければならない人の何と多いことかと気づくと、絶望するしかありません。神の憐れみを乞うしかありません。「主よ、私の祈りをお聞きください。私の叫びに耳を傾けてください。私の涙に黙していないでください。私はあなたに身を寄せる者、すべての先祖と同じ宿り人。私から目を離してください。そうすれば、私は安らぎます。私が去って、いなくなる前に。」私たちの罪が必然的に招き寄せた罰に苦しむとき、私たちは神さまに憐れみを求めるより他ないのです。
キリストが十字架にかかったのは、そういう私たちの具体的な罪のためです。舌が生み出す不義の世界は、私たちの存在に深く食い込む罪の実態を現す氷山の一角です。だから、削っても削っても、罪の現実は解決しない。そのような際限のない私たちの罪の現実をすべて赦し、私を新しくしてくださるのは、キリストだけです。「主よ、憐れんでください。」それが私たちの祈りです。

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