詩編41
幸いな者、弱い者を思いやる人は。
災いの日に、主はその人を救い出してくださる。
主が守り、生かし、彼はその地で幸いな人と呼ばれる。
その人を敵の思いのままにさせないでください。
主は彼が病の床にあっても支えてくださる。
その人が病気のとき
あなたはその床を新たに変えてくださる。(2~4節)
この詩編がとてもユニークだと思うのは、これが病んでいる人の祈りの言葉であることです。どこかの偉い先生が、弱い者、病の人を思いやる人は幸いだよと教えているのではありません。病のために弱っている人自身が、弱い者を思いやる人は幸いだ、と言っています。
病を煩うと、それまでは当たり前だったことが実は当たり前でなかったということに気づきます。特に人間関係が変わってしまうことは多い。自分のことを気に掛けてくれていると思っていた人が実はそうではなかったということも時にはあります。「見舞いに来ても、その者の心は空しいことを語り、悪事を集め、外に出ては言いふらす」(7節)。善意の顔をしてやってきても、結局は自分を噂の種としか思っていない。そういう下心が透けて見える。そのことにとても苦しみ、また悲しんでいる。さらに、このような言葉まである。「私が信頼していた友さえも、私のパンを食べながら、威張って私を足蹴にします」(10節)。
だからこそ「幸いな者、弱い者を思いやる人は」と言うのです。本当に実感のこもった言葉です。そして、思いやってくれる人のために祈ります。「その人を敵の思いのままにさせないでください」(3節)と。さらに、神さまの守りを語ります。「その人が病気のとき、あなたはその床を新たに変えてくださる」(4節)。
病は自分の心や体に食い込み、痛みを負わせます。しかしそれだけではなく、人間関係にも変化を及ぼし、そのことによって私たちは力づけられもするし、傷つけられもします。しかし根本的には、病は神さまとの関係が問われるときです。「しかし主よ、あなたは私を憐れみ、立ち上がらせてください」(11節)。病の中、しかし「あなたが私を喜びとされていることを」(12節)知るならば、どんな状況でも私たちが失うことのない慰めとなり、支えとなります。神さまの祝福が、今日もあなたにありますように。
幸いな者、弱い者を思いやる人は。
災いの日に、主はその人を救い出してくださる。
主が守り、生かし、彼はその地で幸いな人と呼ばれる。
その人を敵の思いのままにさせないでください。
主は彼が病の床にあっても支えてくださる。
その人が病気のとき
あなたはその床を新たに変えてくださる。(2~4節)
この詩編がとてもユニークだと思うのは、これが病んでいる人の祈りの言葉であることです。どこかの偉い先生が、弱い者、病の人を思いやる人は幸いだよと教えているのではありません。病のために弱っている人自身が、弱い者を思いやる人は幸いだ、と言っています。
病を煩うと、それまでは当たり前だったことが実は当たり前でなかったということに気づきます。特に人間関係が変わってしまうことは多い。自分のことを気に掛けてくれていると思っていた人が実はそうではなかったということも時にはあります。「見舞いに来ても、その者の心は空しいことを語り、悪事を集め、外に出ては言いふらす」(7節)。善意の顔をしてやってきても、結局は自分を噂の種としか思っていない。そういう下心が透けて見える。そのことにとても苦しみ、また悲しんでいる。さらに、このような言葉まである。「私が信頼していた友さえも、私のパンを食べながら、威張って私を足蹴にします」(10節)。
だからこそ「幸いな者、弱い者を思いやる人は」と言うのです。本当に実感のこもった言葉です。そして、思いやってくれる人のために祈ります。「その人を敵の思いのままにさせないでください」(3節)と。さらに、神さまの守りを語ります。「その人が病気のとき、あなたはその床を新たに変えてくださる」(4節)。
病は自分の心や体に食い込み、痛みを負わせます。しかしそれだけではなく、人間関係にも変化を及ぼし、そのことによって私たちは力づけられもするし、傷つけられもします。しかし根本的には、病は神さまとの関係が問われるときです。「しかし主よ、あなたは私を憐れみ、立ち上がらせてください」(11節)。病の中、しかし「あなたが私を喜びとされていることを」(12節)知るならば、どんな状況でも私たちが失うことのない慰めとなり、支えとなります。神さまの祝福が、今日もあなたにありますように。