2021年2月6日土曜日

2021年2月6日(詩編42〜43)

詩編42~43
鹿が涸れ谷で水をあえぎ求めるように
神よ、私の魂はあなたをあえぎ求める。
神に、生ける神に私の魂は渇く。
いつ御前に出て、神の御顔を仰げるのか。
昼も夜も、私は涙を食物とする。
人は日夜私に言う。
「あなたの神はどこにいるのか」と。
私は祭りに集う人の群れと共に進み
喜びと感謝の声の中、彼らを神の家へと導いた。
それらを思い起こして、私の魂を注ぎ出す。(2~5節)

上に引用した詩編42の冒頭部分の最後のところ、5節ですが、ここを私は去年教会堂での礼拝を停止していた時期によく思い出しました。ここで言っている「祭り」は明らかに礼拝のことです。神の御前に喜びと感謝を献げる。しかも独りぼっちではなく、共に神を信じる仲間たちと。神の家へ上り、礼拝を献げた営み。しかしそれは「今」のことではなく記憶の中のことであり、今はそれを思い起こしながら自分の魂を注ぎだしているのです。詩編作者の深い悲しみを読み取ることができるし、今私たちにはその気持ちがよく分かります。
渇ききった魂。荒れ地のように渇き、ひび割れ、カサカサになっている魂が神をしたい求めている。鹿が谷底に僅かに流れる水をあえぎ求めるように。神さまの御前に出ていきたい、祈りをし、共に神を信じる者たちと一緒に神さまを仰ぎたい。しかし、昼も夜も、涙を食物とするような悲しみの日々の終わりが見えない。
神はどこにおられるのか。人に何かを言われずとも、私たち自身が何度も、繰り返し問い続けていることです。私がこんなに悲しんでいるとき、神さまは一体どこで何をしておられるのか。
私の義理の父はこの詩編の讃美歌がとても好きで、自分の葬式の時にはこれを歌ってほしいとよく言っています。「お前の神はどこにいる」というところが好きなのだそうです。世間の厳しい現実の中で神を信じて生きることは並大抵のことではなかったのだろうなと、私はその言葉を聞く度に思います。
私たちの救いは、この詩編が言うとおりに神さまの御顔を仰ぐことです。「私はなお、神をほめたたえる、『御顔こそ、わが救い』と」(43:5)。そして、神さまは私たちに顔を向けてくださっています。私たちが例え神さまの御顔を見失っていたとしても。私たちが悲しみのあまりに自分に拘泥しているときにも。それでも私に御顔を向けてくださっている憐れみ深い神こそが私の救い。この詩編と共に、私たちはそのように祈ります。

2024年12月24日の聖句

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