詩編77
私の声よ、神に届け。
私は叫ぶ。
私の声よ、神に届け。
神は私に耳を傾けてくださる。
苦難の日にわが主を尋ね求め
夜もたゆまず手を差し伸べた。
しかし、私の魂は慰めを拒む。
神を思い起こし、呻き、思い巡らそう。
私の霊が萎え果てるまで。(2~4節)
とても印象深い始まりです。「私の声よ、神に届け。」そう言って神に向かって、苦難の中から呼び求める祈りの言葉。苦難の日も、夜にも。ところが、意外な言葉が出てきます。「しかし、私の魂は慰めを拒む。」神さまを呼び求めながら、慰められることを拒んでしまう。それだけ辛く、また激しい嘆きなのだと思います。心が固まってしまって、慰められることさえ拒んでしまうのです。
そこで、この詩編作者は言います。「神を思い起こし、呻き、思い巡らそう。私の霊が萎え果てるまで」と。慰められることも拒んでしまうほど厳しいところに追い詰められたとき、最後にすることができるのは、神を思い起こし、呻きの中で思い巡らすことだ、と言います。例え思い巡らしの中で思いが乱れてしまったとしても(5節)、神の前での思い巡らしには意味があります。
実際に神さまがしてきてくださったことを思い起こし、思い巡らしているのは、14節以下です。「聖なる道」という言葉があります。「大水」や「深い淵」とあります。さらに「あなたの道は海の中に、あなたの行く手は大水の中にある」と書かれています。これは、出エジプトの時のことを言っていると考えられます。モーセに導かれて、エジプトの国から出てきたヘブライ人たち。追撃してくるエジプト軍から逃れるために、神が海の中に道を拓いてくださいました。そのときのことであろうと思います。
私たちのもうどうにもならないとき、疲れ果ててしまったとき、道をなくしてしまったとき。私たちは一体どうしたら良いのか?思い起こしましょう。神が何をしてくださったのかを。神さまは荒れ野に、さらに海の中にだって道を通す方です。私たちは神がしてくださったことを思い起こし、神の慈しみを思い巡らすことによって、また再び生きる勇気を得ることができるのです。
私の声よ、神に届け。
私は叫ぶ。
私の声よ、神に届け。
神は私に耳を傾けてくださる。
苦難の日にわが主を尋ね求め
夜もたゆまず手を差し伸べた。
しかし、私の魂は慰めを拒む。
神を思い起こし、呻き、思い巡らそう。
私の霊が萎え果てるまで。(2~4節)
とても印象深い始まりです。「私の声よ、神に届け。」そう言って神に向かって、苦難の中から呼び求める祈りの言葉。苦難の日も、夜にも。ところが、意外な言葉が出てきます。「しかし、私の魂は慰めを拒む。」神さまを呼び求めながら、慰められることを拒んでしまう。それだけ辛く、また激しい嘆きなのだと思います。心が固まってしまって、慰められることさえ拒んでしまうのです。
そこで、この詩編作者は言います。「神を思い起こし、呻き、思い巡らそう。私の霊が萎え果てるまで」と。慰められることも拒んでしまうほど厳しいところに追い詰められたとき、最後にすることができるのは、神を思い起こし、呻きの中で思い巡らすことだ、と言います。例え思い巡らしの中で思いが乱れてしまったとしても(5節)、神の前での思い巡らしには意味があります。
実際に神さまがしてきてくださったことを思い起こし、思い巡らしているのは、14節以下です。「聖なる道」という言葉があります。「大水」や「深い淵」とあります。さらに「あなたの道は海の中に、あなたの行く手は大水の中にある」と書かれています。これは、出エジプトの時のことを言っていると考えられます。モーセに導かれて、エジプトの国から出てきたヘブライ人たち。追撃してくるエジプト軍から逃れるために、神が海の中に道を拓いてくださいました。そのときのことであろうと思います。
私たちのもうどうにもならないとき、疲れ果ててしまったとき、道をなくしてしまったとき。私たちは一体どうしたら良いのか?思い起こしましょう。神が何をしてくださったのかを。神さまは荒れ野に、さらに海の中にだって道を通す方です。私たちは神がしてくださったことを思い起こし、神の慈しみを思い巡らすことによって、また再び生きる勇気を得ることができるのです。