詩編78
これは私たちが聞いて知ったこと
先祖が語り伝えたこと。
これを子孫に隠すことなく
主の誉れと力を
主がなされた奇しき業を
後の世代に語り伝えよう。(3~4節)
先祖が語り伝えたこと、自分や自分の世代が受け継いだことを後の世代に語り伝えよう、と言います。記憶を継承する営みです。私たちの社会では、ほとんど失われた営みです。去年の夏に、市が主催した被爆者の体験を子どもたちに語り聞かせる会に息子と一緒に参加しました。座間市にも広島で被爆した方がおられるのです。単発的にそういう取り組みが行われてはいますが、残念ながら社会の中で共有されているわけではありません。この数十年、急激に日本各地で都市化が進み、地域共同体は失われました。象徴的な出来事は10年前の原発事故です。強制的に避難を余儀なくされた人々はふるさとを喪失しました。お金による賠償がいくらか行われましたが、ふるさとの価値はお金に換算することができません。ふるさとは記憶の共同体でもあるからです。
聖書の民は記憶を共有します。しかも「子孫に隠すことなく」と言っているとおり、良いことも悪いことも隠さずに先祖の歴史を語り伝えます。良いときにも悪いときにも、神が私たちを見捨てず、見放さず、救ってくださっている歴史を共有します。そのことによって、彼らは一つになるのです。
ここで語り伝えられるイスラエルの歴史は、ほとんど罪の歴史そのものです。「彼らは神の契約を守らず、その教えに従って歩むことを拒み、神の業と、彼らに示された奇しき業を忘れた」(10~11節)。さらに、「しかし彼らは神に向かって罪を重ね、砂漠でいと高き方に逆らった」(17節)とも言われている。神を頼みとせず、罪を犯し、奇しき神の御業を信じませんでした。ところが神は彼らを捨てなかった。「しかし、神はその民を羊のように導き出し、荒れ野で家畜の群れのように養った」(52節)。神の前に罪を重ね、そのために悲惨な境遇に陥り、しかし神が助け、しばらくするとまた神に背き・・・ということの繰り返しです。それがイスラエルの歴史なのです。
これは、私たちの歴史でもあります。私たちも神の民の一員になり、この歴史の一部になっています。それでも見捨てない神の憐れみに、私たちも同じように生かされている。この詩編の終わりは印象的です。「僕ダビデを選び、羊の囲いから取り」(70節)と、ダビデの話で終わります。イスラエルの人たちはここまでしか知りませんでした。しかし、私たちはその先を知っています。すなわち、このダビデの家からキリストがお生まれになったことを。私たちはキリストによって救われた罪人。罪の歴史の中にキリストが来てくださった。この歴史の一員として、私たちも神の民の一人として歩みを、今日も新しく重ねている。神の御業の記憶共同体。それが私たちです。
これは私たちが聞いて知ったこと
先祖が語り伝えたこと。
これを子孫に隠すことなく
主の誉れと力を
主がなされた奇しき業を
後の世代に語り伝えよう。(3~4節)
先祖が語り伝えたこと、自分や自分の世代が受け継いだことを後の世代に語り伝えよう、と言います。記憶を継承する営みです。私たちの社会では、ほとんど失われた営みです。去年の夏に、市が主催した被爆者の体験を子どもたちに語り聞かせる会に息子と一緒に参加しました。座間市にも広島で被爆した方がおられるのです。単発的にそういう取り組みが行われてはいますが、残念ながら社会の中で共有されているわけではありません。この数十年、急激に日本各地で都市化が進み、地域共同体は失われました。象徴的な出来事は10年前の原発事故です。強制的に避難を余儀なくされた人々はふるさとを喪失しました。お金による賠償がいくらか行われましたが、ふるさとの価値はお金に換算することができません。ふるさとは記憶の共同体でもあるからです。
聖書の民は記憶を共有します。しかも「子孫に隠すことなく」と言っているとおり、良いことも悪いことも隠さずに先祖の歴史を語り伝えます。良いときにも悪いときにも、神が私たちを見捨てず、見放さず、救ってくださっている歴史を共有します。そのことによって、彼らは一つになるのです。
ここで語り伝えられるイスラエルの歴史は、ほとんど罪の歴史そのものです。「彼らは神の契約を守らず、その教えに従って歩むことを拒み、神の業と、彼らに示された奇しき業を忘れた」(10~11節)。さらに、「しかし彼らは神に向かって罪を重ね、砂漠でいと高き方に逆らった」(17節)とも言われている。神を頼みとせず、罪を犯し、奇しき神の御業を信じませんでした。ところが神は彼らを捨てなかった。「しかし、神はその民を羊のように導き出し、荒れ野で家畜の群れのように養った」(52節)。神の前に罪を重ね、そのために悲惨な境遇に陥り、しかし神が助け、しばらくするとまた神に背き・・・ということの繰り返しです。それがイスラエルの歴史なのです。
これは、私たちの歴史でもあります。私たちも神の民の一員になり、この歴史の一部になっています。それでも見捨てない神の憐れみに、私たちも同じように生かされている。この詩編の終わりは印象的です。「僕ダビデを選び、羊の囲いから取り」(70節)と、ダビデの話で終わります。イスラエルの人たちはここまでしか知りませんでした。しかし、私たちはその先を知っています。すなわち、このダビデの家からキリストがお生まれになったことを。私たちはキリストによって救われた罪人。罪の歴史の中にキリストが来てくださった。この歴史の一員として、私たちも神の民の一人として歩みを、今日も新しく重ねている。神の御業の記憶共同体。それが私たちです。