2021年4月1日木曜日

2021年4月1日(マルコによる福音書14)

マルコによる福音書14
そこで、重ねて大祭司は尋ね、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と言った。イエスは言われた。「私がそれである。
あなたがたは、人の子が力ある方の右に座り
天の雲に乗って来るのを見る。」
大祭司は衣を引き裂いて言った。「これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は冒瀆の言葉を聞いた。どう思うか。」(61~63節)

主イエス・キリストが裁かれました。神を冒瀆した。これはユダヤの法廷、大祭司が裁判官を務める法廷ですので、これからピラトのもとでローマの権威による裁判に移送されることになる。しかしまず、同じ神を信じている者たちの手でイエスは裁かれ、罪ある者とされました。
なぜ、主イエスは裁かれたのか?「お前はほむべき方の子、メシアなのか」という大祭司の問いに「私がそれである」と答えたからです。イエスの罪は神の子、メシアであることです。イエスが神の子であるから、私たちのためのメシアであるから、イエスは「死刑にすべきだ」と言われました。
イエスは神を冒瀆していると言いますが、本当にそうなのか?私たちは今や知っています。この方が本当に神の子であることを。この方が本当にメシアであることを。主イエスは、本当のことしか言っていません。本当のことを言うイエスを、私たち人間の世界は受け入れませんでした。
主イエスの「私がそれである」という言葉を中心にして、その前には最高法院でのイエスに不利な証言、その後にはペトロの証言が記されています。最高法院でのたくさんの人たちの証言は、すべて偽証でした。ペトロも、呪いの言葉さえ口にしながらイエスを知らないと証言しました。主イエスの「私がそれである」という言葉を中心に、前にも後にも、人間の偽りの言葉が書かれています。
主イエス様という光に照らされると、私たち人間の嘘が明るみに出ます。イエスがメシアだから死刑にすべきだと言い、そのイエスと一緒に生きる人間だと言うことを否定するために嘘をつく。イエスという光が、人間の偽り者だという本性を明るみに出します。
しかし、主イエスはご自分の真実にかけて、ペトロにすでに言っていてくださいました。「あなたがたは皆、私につまずく。・・・しかし、私は復活した後、あなたがたより先にガリラヤに行く。」ガリラヤで、弟子たちと再会するためです。イエス・キリストという光は私たちの偽りを暴露します。しかし、この光の中で、そのような偽り者を捨てない神の愛と、私たちは出会っているのです。

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...