2021年6月13日日曜日

2021年6月13日(詩編147)

詩編147
馬の勇ましさを喜ばず
人の健脚も望まない。
主はご自分を畏れる人々を
その慈しみを待つ人々を望む。(10~11節)

神さまの基準は、私たちの常識とはかけ離れていると思います。馬の勇ましさも人の健脚も、軍事的な強さを保証します。軍事的な強さは、そのまま、地政学的な安全に直結します。21世紀でも似たようなものでしょうが、この時代はなおのこと軍馬や兵士の力が命に直結する大問題であったはずです。それなのに、言うのです。「馬の勇ましさを喜ばず、人の健脚も望まれない。」言うまでもなく、誰が喜ばないのか、誰が望まないのかといえば、神さまです。神さまは、勇ましい軍馬の力強さ、健脚な人の体力、そのようなものを望まないのだ、と言うのです。常識外れです。私たちの神さまは、規格外の方です。
この問題は、新約聖書の時代になると、割礼の問題というかたちになりました。割礼は旧約聖書の最初の頃には神さまの契約のしるしとして重要な意味を持ちました。ところがやがてユダヤの民族性の象徴となり、新約聖書の時代には、他の人を退ける閉鎖性のしるしになりました。そして、割礼を受けている自分というふさわしさが一番大事になってしまい、神さまの入る余地がなくなってしまった。と、このように説明をすると、割礼は問題だと多くの人が感じると思います。ところが当時のユダヤ人からしたら、自分たちのアイデンティティそのものです。神さまを信じてきた自分たちの信心の証しです。当然のこととして、大切なもの。それが常識でした。ところが、救いは割礼によらないと聖書は言うのです。ただ神の恵みによってのみ。ただ信仰によってそれを頂くのみ。軍馬も兵士も割礼も、人間の力が人間を救うということが共通しています。しかし神さまはそれを退けられます。神さまは規格外、私たちの常識の外におられるのです。
ですから、今朝の詩編は言います。「我らの主は大いなる方。力に富み、その英知には限りない。」神さまの英知が私たちの英知と異なり、もっとすばらしく偉大であるのは、考えてみれば当然のことです。しかし私たちはついつい自分の常識を神さまに押しつけようとします。馬の勇ましさも人の健脚も、神さまも認めてしかるべきだと思ってしまう。しかし、神さまは私たちを人が見るようにはご覧になりません。「主はご自分を畏れる人々を、その慈しみを待つ人々を望む。」神を畏れ、神の慈しみをこいねがう者を、神さまは決して軽んじられないし、そういう者を喜んでくださる。私たちは神の慈しみに信頼し、このお方を待ち望みます。

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...