2021年10月8日金曜日

2021年10月8日の聖句

私の掟を与え、法を与えた。人がこれを行うことで生きるためである。(エゼキエル20:11)
真実なこと、尊ぶべきこと、正しいこと、清いこと、愛すべきこと、評判のよいこと、徳や賞賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。(フィリピ4:8)

私たちの心の中に良心を与えてくださったのは、神さまです。「真実なこと、尊ぶべきこと、正しいこと、清いこと、愛すべきこと、評判のよいこと、徳や賞賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。」何が真実なのか、尊ぶべきことなのか、正しいのか、清いのか、愛すべきなのか、徳や賞賛に値することなのかを見極めることができなければ、何が本当に心に留めるべき価値あるものなのかが分かりません。「評判のよいこと」というのもあります。確かに評判が悪いことを独り善がりに重んじていても仕方がありませんが、評判がよいからと言って、必ずしも尊ぶべき、清い、徳や賞賛に値することだとも限らない。やはりその見極めは、良心だと思います。良心に照らして、人から変に思われたくないからということだったり、人と同じようにしておこうというだけではなく、真に尊ぶべきことをしているのか否か、はかるということではないでしょうか。
私たちは神さまのかたちに造られました。いろいろな意味がそこにあると思います。その一つに、良心的な存在に造られたということも含まれるのではないでしょうか。神さまは私たちを良心的な存在として造ってくださいました。人の評判だけを基準にして不真実な行いをすれば、良心が痛みます。この世ではそういう痛みを無視することが大人の知恵というようなところがありますが、やはり良心の痛みは大切です。神さまが与えてくださった痛みなのですから。
しかし、私たちの良心は、まっすぐなわけではありません。無視することもできてしまうし、自分勝手な基準で自分一人の良心になってしまうこともしばしばです。私たちはどこかが歪んでいる。だから、神さまの御言葉に耳を傾け続け、自分のこだわりではなく、何を神さまが重んじ、お喜びになるのかを問い続けることが大切ではないでしょうか。
「私の掟を与え、法を与えた。人がこれを行うことで生きるためである。」主なる神様はそのように言われます。主なる神様は、私たちが生きるようになるための御言葉を与えてくださいます。私たちを殺したり不自由にしたりするのではなく、神に造られた私らしく、自由な、そして責任的な存在として生きるように、私たちを御言葉によって新しくしてくださるのです。

2024年4月27日の聖句

「私には罪がない」とか、「主の怒りは私から去った」とあなたは言う。「私は罪を犯していない」と言ったために、今、私はあなたに裁きをもたらす。(エレミヤ2:35) イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください。(ルカ23:42) 十字架にかけられた一人の罪人が主イ...