2022年1月19日水曜日

2022年1月19日の聖句

貧しい者を嘲る者は自分の造り主をそしる。人の災難を喜ぶ者は罰を免れない。(箴言17:5)
憐れみ深い人々は、幸いである。その人たちは憐れみを受けるからだ。(マタイ5:7)

今回のコロナのことで痛感させられたことの一つは、苦しむ人と私との差は何もない、ということです。いつ、どこで、だれが病になるか分かりません。本当はコロナにまったく限らない。どのような病気でも、病気以外のいろいろなつらい出来事であっても、そうです。今苦しんでいる人、つらい思いをしている人、悲しんでいる人と自分との差はありません。本当だったら私が病気になったかも知れないし、重症になってしまったかも知れません。今日、そうなるかも知れません。隣人を愛するというのは、何か崇高な美徳というよりも、我が事です。憐れみに生きることは、自分を愛することと区別することはできないのだと思います。私たちは隣人を愛することなく自分を愛することができないのではないでしょうか。
「憐れみ深い人々は、幸いである。その人たちは憐れみを受けるからだ。」憐れみ、と主イエスは言われます。この言葉は、ヘブライ人への手紙2:17でも使われています。「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。」ここでは、主イエスさま御自身のお心を表すために、この「憐れみ」という言葉を使っています。主イエスさまの憐れみは、私たちのために、私たちと同じものになる憐れみです。私たちと同じ痛みを、私たちと同じ病を、私たちと同じ悲しみを嘗めるために、キリストは私たちと同じ者になられました。キリストは、ご自分の隣人として、私たちを愛してくださいました。キリストは私たちの痛みを我が事としてくださいました。だから、私たちにも愛すること、憐れみ深く生きてほしいと、主イエスは言われるのです。
「貧しい者を嘲る者は自分の造り主をそしる。人の災難を喜ぶ者は罰を免れない。」人の災難を喜ぶというのは倫理的によくないとか、人としてみっともないとか、そういう言い方もできるかも知れませんが、それ以上に、主イエス・キリストが私たちにしてくださったことに矛盾します。キリストは貧しい者のために貧しくなってくださいました。災難に苦しむ者のために災難の中に身を置いてくださいました。キリストは、完全に私の痛みを負い、私の貧しさを苦しんでくださいました。このキリストの御名が褒め称えられますように、とひたすら祈ります。

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...