2022年7月11日月曜日

2022年7月11日の聖句

主よ、わが力、わが砦、苦難の日のわが逃れ場よ。(エレミヤ16:19)
私たちは、四方から苦難を受けても行き詰まらず、途方に暮れても失望しません。(2コリント4:8)

主なる神さまは私の力、私の砦。主こそが私の苦難の日に逃れるべき場所。そう告白しています。預言者エレミヤの言葉です。エレミヤは苦難の連続の人生でした。しかも、神さまを信じ、神さまに仕えたからこそ受けた苦難でした。エレミヤは苦しみや悲しみを骨の髄まで味わった人です。そういう一人の信仰者が言います。「主よ、わが力、わが砦、苦難の日のわが逃れ場よ。」主こそが私の力でいてくださり、私が苦難から逃れるための砦でいてくださる。主なる神さまを信じ、主に仕え、主に信頼する一人の信仰者がここにいる。私たちの信仰の大先輩の告白です。
使徒パウロも同じ苦しみと、同じ慰めを知っている人です。パウロもキリストの使徒としていき、そのためにたくさんの苦しみを受けました。石を投げられ、牢につながれ、鞭で打たれました。難船も経験したし、貧しさや渇きの中で過ごしたこともしばしばでした。しかし、パウロもまた告白します。「私たちは、四方から苦難を受けても行き詰まらず、途方に暮れても失望しません。」
四方から苦難を受けてもというのは、ただならぬ事です。何かがあって、なんらかの対応を考えた。ところがうまくいかない。それが何度も何度も繰り返される。もうどうすることもできない。手は尽くしたけれど、どれもうまくいかない。「四方から」というのは、そういう状況を思わせます。しかし、パウロは言います。「私たちは、四方から苦難を受けても行き詰まらず」と。
ここで大切なのは、「私たちは」と言っていることではないでしょうか。パウロのような特別な信仰者であれば行き詰まらないけれど、私たちのような凡人ではにっちもさっちもいかない、というのではないのです。「私たちは、四方から苦難を受けても行き詰まらず」です。私たちも同じ信仰に生きているはずだ、とパウロは言います。さらに、私たちは「途方に暮れても失望しません」とも言う。途方に暮れることはたくさんあります。私たちは案外すぐに失望してしまう。失望が「すぐ」である分、慰めも「すぐ」のお手軽なもので済ませてしまう。結局、根本的には何も変わらない。ところが、パウロにしてもエレミヤにしても、この人たちの慰めは、私が神のものだという福音の事実であったのではないでしょうか。私は私を愛してくださるキリストのもの。だから、四方から苦難を受けても行き詰まらないし、途方に暮れても失望しないで済む。キリストが新しい御業を始めてくださると、いつも信じているからです。

2024年4月24日の聖句

恐れるな、もはや恥を受けることはないから。(イザヤ54:4) 天使は女たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」(マタイ28:5~6) 「あの方は、ここにはおられない。」最初のイースターの朝...