2022年9月29日木曜日

2022年9月29日の聖句

ヨシュアは顔を地につけて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をこの僕に告げられるのですか。」(ヨシュア5:14)
イエスはひざまずいてこう祈られた。「父よ、御心なら、この杯を私から取りのけてください。しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってください。」すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。(ルカ22:41~43)

ヨシュアはモーセのあとを引き継いで、ヘブライ人たちを約束の地に導いたリーダーです。これからいよいよ約束の地に入っていこうとしたとき、ヨシュアは抜き身の剣を手にした人が自分に向かって立っているのを見ました。ヨシュアは尋ねます。「あなたは私たちの味方か、それとも私たちの敵か。」すると、その人は言いました。「いや、私は主の軍勢の長である。今やって来たのだ。」それで、ヨシュアはひれ伏して言ったのです。「わが主は、何をこの僕に告げられるのですか。」そこでこの人はヨシュアに告げました。「履物を脱ぎなさい。あなたが立っている場所は聖なる所である。」
この人は主の軍勢の長でした。別の言い方をすれば、天の使いです。天の使いがヨシュアに、ここは聖なる場所、神がおられる場所だと告げたというのです。これからヨシュアとヘブライ人たちが入っていく約束の地は、神がおられる所、聖なる場所。神さまの御前でこれからの日々が始まるのだ、と天使は告げました。
私たちの日々も、神さまの御前にあります。神さまの御前に出たとき、ヨシュアはひざまずいて祈りました。私たちプロテスタント教会は、祈りの恰好についてあまり真剣に考えた来なかった嫌いがあるように思います。ヨシュアは顔を地につけて伏し拝みます。そして、主イエス・キリストはひざまずいて祈っておられます。主がゲツセマネで祈っておられる内容と、ひざまずいておられるというお姿とは、切っても切れない関係にあるのではないでしょうか。
私たちも、祈るときの自分の姿に気を払うことは、とても大切であると思います。改革者マルティン・ルターは、朝夕の祈りを具体的に指導した書物の中で、跪いて、あるいは立って祈ることを勧めています。私たちは神さまの御前で祈り、神さまの御前で一日を過ごしていきます。神さまの御前、聖なる場所に生きる者として、(健康や状況の許す中で)私たちも祈り手としての恰好に気を払ってはどうでしょうか。

2024年4月23日の聖句

神の道は完全。(詩編18:31) (イエスの言葉)「神の国は次のようなものである。人が地に種を蒔き、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。地はおのずから実を結ばせるからだ。」(マルコ4:26~28) 福音書記者マルコは主イエ...