2022年12月20日火曜日

2022年12月20日の聖句

ノアは主の前に恵みを得た。(創世記6:8)
人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。(ルカ18:8)

今日の新約聖書の御言葉は、主イエスのなさったたとえ話の最後の一言です。不正な裁判官の話です。神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいました。その町に一人のやもめがいた。彼女は自分のために裁きをしてほしいと裁判官にしつこく嘆願します。裁判官はしばらくの間取り合おうともしませんでした。ところがあんまり彼女しつこいので、まいってしまって、彼女の言うとおりにしてやろうと思うのです。主イエスは言われます。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求める選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでも放っておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」
今朝の御言葉はこのようなつながりで登場する言葉です。そうだとすると、「地上に信仰を見いだすだろうか」と主イエスがおっしゃるところの「信仰」というのは、落胆せずに絶えず祈ることを意味することになります。神さまをうんざりさせてしまうほどのしつこい祈りのことです。信仰と言っても漠然とした信じる気持ちとか敬虔さとかではなく、必死に祈る者のそのあり方そのものを意味する。主イエスが再び地上に来られたとき、必死に祈る人を求めておられるのだ、とおっしゃるのです。
諦めずに、絶えず祈っていますか?自分に思わしくないことがあるとすぐに諦めたり、変に神さまに遠慮して祈ろうとしなかったりしていないでしょうか。フォーサイスという英国の牧師は「最悪の罪は祈らないことである」と言いました。私たちは祈っているでしょうか?
ノアは無垢な正しい人でした。彼の無垢さは、その後の箱舟の建築などに見える姿勢から考えるに、神さまに向かうまっすぐさであろうと思います。やはりここでも、大切なのは祈る者のあり方です。祈るとは、立派な祈りの言葉を並べることではありません。心を献げることです。ちっぽけで、取るに足らないように思えたとしても、その小さな心をまっすぐに神さまに献げる祈りを、神さまは喜んでくださる。苦悩の中から神さまに訴え、叫ぶような祈りを神さまは受け止めてくださいます。今日も、祈りの歩みに祝福がありますように。

2024年4月26日の聖句

神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ人間のすべてである。(コヘレト12:13) (イエスの言葉)「第一の戒めは、これである。『聞け、イスラエルよ。私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の戒めは...