ヒゼキヤは重病であった。そして主に祈った。主は彼と語られ、彼にしるしを与えられた。ところがヒゼキヤは自分に起こったことにふさわしく報いることはなかった。彼の心は高ぶっていたからである。(歴代誌下32:24~25)
神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる。(1ペトロ5:5)
歴代誌下第29章にヒゼキヤ王が最初に登場したとき、聖書はこの人についてこのように評価しています。「彼は父祖ダビデが行ったように、主の目に適う正しいことをことごとく行った。」例えば、主の神殿を修理して整えたり、当時すでに過越祭が祝われなくなってしまっていたのを再開したり、国にはびこる偶像を取り除いたりしました。そのヒゼキヤ王が重病になったときのことです。死にさらされる病でした。しかし彼は主なる神さまに祈りました。そして、主なる神さまはその祈りに応え、「彼にしるしを与えられた」。つまり、彼のその病は癒やされた。しかしヒゼキヤは神が与えてくださった恩恵にふさわしく報いることがありませんでした。そして、それは彼の心の高ぶりから来るものだと神さまは見抜いておられた。結局、彼自身の上にも、彼の国の上にも、神の怒りが降る結果になってしまいました。
このときの彼の心の高ぶりというのは、一体どういうものだったのでしょう。神がしるしを与えて彼が癒やされたとき、彼がふさわしく報いなかったというのは、一体どういうことなのでしょうか。
もしかしたらヒゼキヤは、病が癒えたのは自分の祈りの成果だと思ったのかも知れません。私たちの祈りが呪術と違うのは、祈りの力が思い通りの効果を引き出すという考えがないことです。祈りは、神さまへの語りかけです。神さまがそれに応えてくださったのであれば、それは<神が>応えてくださったということです。<私の>祈りの力や私の熱心さではない。あくまでも大切なのは神様ご自身です。神さまの憐れみが働いている。ヒゼキヤはとても信仰深い人でしたし、誠実に神さまを信じ、従ってきました。そのヒゼキヤでさえも、祈りにおける焦点が神さまではなく自分自身になってしまったのだとしたら、これはたいへんなことです。ましてや自分の祈りは、神さまに一体どう聞かれるのだろうと思います。祈りにおける高慢。それは、祈っているようでありながらその実自分にばかりこだわる私たちの罪を暴露します。
「主よ、お赦しください。私の愚かな祈りの数々を。愚かであったのです。私の祈ることそのものが。」私たちの祈りは、ここから始まります。
神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる。(1ペトロ5:5)
歴代誌下第29章にヒゼキヤ王が最初に登場したとき、聖書はこの人についてこのように評価しています。「彼は父祖ダビデが行ったように、主の目に適う正しいことをことごとく行った。」例えば、主の神殿を修理して整えたり、当時すでに過越祭が祝われなくなってしまっていたのを再開したり、国にはびこる偶像を取り除いたりしました。そのヒゼキヤ王が重病になったときのことです。死にさらされる病でした。しかし彼は主なる神さまに祈りました。そして、主なる神さまはその祈りに応え、「彼にしるしを与えられた」。つまり、彼のその病は癒やされた。しかしヒゼキヤは神が与えてくださった恩恵にふさわしく報いることがありませんでした。そして、それは彼の心の高ぶりから来るものだと神さまは見抜いておられた。結局、彼自身の上にも、彼の国の上にも、神の怒りが降る結果になってしまいました。
このときの彼の心の高ぶりというのは、一体どういうものだったのでしょう。神がしるしを与えて彼が癒やされたとき、彼がふさわしく報いなかったというのは、一体どういうことなのでしょうか。
もしかしたらヒゼキヤは、病が癒えたのは自分の祈りの成果だと思ったのかも知れません。私たちの祈りが呪術と違うのは、祈りの力が思い通りの効果を引き出すという考えがないことです。祈りは、神さまへの語りかけです。神さまがそれに応えてくださったのであれば、それは<神が>応えてくださったということです。<私の>祈りの力や私の熱心さではない。あくまでも大切なのは神様ご自身です。神さまの憐れみが働いている。ヒゼキヤはとても信仰深い人でしたし、誠実に神さまを信じ、従ってきました。そのヒゼキヤでさえも、祈りにおける焦点が神さまではなく自分自身になってしまったのだとしたら、これはたいへんなことです。ましてや自分の祈りは、神さまに一体どう聞かれるのだろうと思います。祈りにおける高慢。それは、祈っているようでありながらその実自分にばかりこだわる私たちの罪を暴露します。
「主よ、お赦しください。私の愚かな祈りの数々を。愚かであったのです。私の祈ることそのものが。」私たちの祈りは、ここから始まります。