今週の聖句:神の霊が駆り立てる者たちは神の子です。(ローマ8:14)
今日の聖句:
あなたがあなたの貧しい兄弟に与えることに
労を惜しんではならない。(申命記15:10)
与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。(ルカ6:38)
今日の新約聖書の御言葉と同じルカによる福音書で、今日よりももっと先の方、第14章にこのような主イエスのお言葉があります。「宴会を催すときには、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、彼らはお返しができないから、あなたは幸いな者となる。正しい人たちが復活するとき、あなたは報われるだろう。」善いことをするなら貧しい人や体の不自由な人にしなさい、と主は言われます。なぜなら彼らにはあなたへのお返しができないから。そうであるなら、彼らではなく神があなたたちにお返しをしてくださる。だからあなたたちは幸いだと言うのです。
「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。」それは、神さまが与えてくださるということです。だから隣人に対しては何も期待せずに与えなさいと主は言われます。それどころか、あなたにお返しをすることができない人を選んで与えなさい、とまで言われるのです。すごい言葉です。
しかし、もしかしたら、神さまに対してさえもお返しを期待せずにいる方がより高潔だと思う人もいるかも知れません。そもそも貧しい人に与えるのは善いことなのであって、それをするのは神も含めたあらゆるお返しを当てにしてのことではない。善いことは善いことだからする。それだけだ。そういう考え方も、確かにとても高潔で道徳的に立派なように感じます。しかし、主イエスは神のお返しをあてにしていいと言われます。神が報いてくださることを信じよう、と言われます。それは、私たちが神さまの御目の前で生きることにこそ、本当の幸いがあるからです。神さまがほめてくださること、神さまが喜んでくださること、それが私たちの心からの喜びです。そのお返しは私たちの欲望を満たすものではないのでしょう。この世が与える豊かさとは違うものでしょう。しかし、確かに神は報いてくださる。神さまさえも括弧に入れてしまうというのは、実は、とても高慢なのかも知れません。
今日の聖句:
あなたがあなたの貧しい兄弟に与えることに
労を惜しんではならない。(申命記15:10)
与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。(ルカ6:38)
今日の新約聖書の御言葉と同じルカによる福音書で、今日よりももっと先の方、第14章にこのような主イエスのお言葉があります。「宴会を催すときには、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、彼らはお返しができないから、あなたは幸いな者となる。正しい人たちが復活するとき、あなたは報われるだろう。」善いことをするなら貧しい人や体の不自由な人にしなさい、と主は言われます。なぜなら彼らにはあなたへのお返しができないから。そうであるなら、彼らではなく神があなたたちにお返しをしてくださる。だからあなたたちは幸いだと言うのです。
「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。」それは、神さまが与えてくださるということです。だから隣人に対しては何も期待せずに与えなさいと主は言われます。それどころか、あなたにお返しをすることができない人を選んで与えなさい、とまで言われるのです。すごい言葉です。
しかし、もしかしたら、神さまに対してさえもお返しを期待せずにいる方がより高潔だと思う人もいるかも知れません。そもそも貧しい人に与えるのは善いことなのであって、それをするのは神も含めたあらゆるお返しを当てにしてのことではない。善いことは善いことだからする。それだけだ。そういう考え方も、確かにとても高潔で道徳的に立派なように感じます。しかし、主イエスは神のお返しをあてにしていいと言われます。神が報いてくださることを信じよう、と言われます。それは、私たちが神さまの御目の前で生きることにこそ、本当の幸いがあるからです。神さまがほめてくださること、神さまが喜んでくださること、それが私たちの心からの喜びです。そのお返しは私たちの欲望を満たすものではないのでしょう。この世が与える豊かさとは違うものでしょう。しかし、確かに神は報いてくださる。神さまさえも括弧に入れてしまうというのは、実は、とても高慢なのかも知れません。
神さまの御前でこそ、私たちは本当に人間らしく、愛をもって生きることができる。人からのお返しを当てにせずに与えられる。それは、私が人目の前ではなく、聖なる神さまの御前に生きているから。そこに私たちの幸いがあるのです。