2026年2月19日木曜日

2026年2月19日の聖句

もろもろの民よ、われらの神をたたえ、その栄光をとどろかせよ。
神は私たちの魂を生かし、その足をよろめかすことがない。(詩編66:8~9)
忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ、声をそろえて、私たちの主イエス・キリストの父なる神を崇めさせてくださいますように。(ローマ15:5~6)

今日の新約聖書は祈りの言葉です。すごい祈りです。「忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ、声をそろえて、私たちの主イエス・キリストの父なる神を崇めさせてくださいますように。」私たちも心を合わせて同じ祈りを捧げましょう。主イエスご自身が既に「御名を崇めさせたまえ」という祈りを教えてくださいました。私たちもこのように祈りたいのです。
私たちが神を崇め、賛美することにおいて同じ思いになり、心を合わせることができますように。これこそ、主イエス・キリストに倣うことです。神への賛美で一つになるところで、私たちはキリストのまねをする者にならせて頂く。すてきな言葉です。
私たちは声を合わせて賛美を歌います。思いを合わせ神を賛美して祈ります。私たちの願いは神さまのお名前が崇められ、神さまの栄光あるお名前が全地にとどろくこと。このお方は私たちの魂を生かしてくださいます。主は私たちの足がよろめかないようにしてくださいます。ですから、そのように私たちに配慮してくださる神を賛美する心はそのまま、人間を非人間的に扱う悪や、神が与えてくださったものを独り占めしようとする貪欲とは戦う心をも生み出します。私たちは神がお造りになったこの世界の美しさを保ち、神がお造りになった命の尊厳を尊重する。そして、息あるものはこぞって神の御名をほめたたえますように。そして、私たち自身の存在そのものが賛美となりますようにと祈ります。

2026年2月18日水曜日

2026年2月18日の聖句

主よ、あなたの恵みが私にもたらされますように。
あなたの救いがみことばのとおりに。(詩編119:41)
人々は皆恐ろしくなり互いに語り合って言った。「一体この言葉は何であろうか。イエスが権威と力とをもって命じると、汚れた霊たちが出て行く。」(ルカ4:36)

主イエスの宣教のとても大切な側面は、それが戦いであった、ということです。人を相手にした戦いではない。汚れた霊、悪霊との戦いです。この世界を支配し、人心を支配し、時代を支配する汚れた霊との戦いを、主イエスはなさっている。主は、御言葉によって戦われます。福音を宣言し、神の国が到来したことを告げることで汚れた霊と戦われた。キリストの権威ある福音宣言が時代の霊を打ち負かしたのです。

人々は皆恐ろしくなり互いに語り合って言った。「一体この言葉は何であろうか。イエスが権威と力とをもって命じると、汚れた霊たちが出て行く。」

私たちは、人々が目の当たりにして恐れたという、この御言葉の力を知っているでしょうか。キリストの言葉は、単に「私にとっての個人的な慰め」とか「自分の不全感の癒やし」には留まりません。キリストの言葉は力をもって悪霊を打ち倒し、この世界を神のものとして取り戻す戦いの言葉です。この世への神の国の到来宣言です。
私たちの教会では、洗礼を受けるときに次のような誓約をします。牧師が問います。「あなたは、憐れみ豊かな神の御力により頼み、これまでの道を離れ、世に働く悪の力を拒みますか。」これに対して私たちは「拒みます」と答えたのです。あの時、私たちは世を支配する悪霊とはもうお別れしました。洗礼を授けられたとき、私たちは悪霊ではなく神の側に立つことを表明しました。キリストは必ず、その力強い御言葉のとおりに私たちを救い、神の国の民の一員にしてくださいます。

2026年2月17日火曜日

2026年2月17日の聖句

隠されたことは、私たちの神、主のものである。しかし、現されたことは、とこしえに私たちとその子孫のものである。(申命記29:28)
それは、彼らの心が神の秘儀であるキリストを深く知るようになるためです。知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠されています。(コロサイ2:2~3)

「啓示」という言葉があります。「啓き示す」という字のとおり、神さまがご自身を私たちに啓き示してくださることを指す言葉です。「隠されたことは、私たちの神、主のものである。しかし、現されたことは、とこしえに私たちとその子孫のものである」という今日の御言葉のとおり、神さまの領域のこと、私たちには隠されていないことはたくさんあります。私たちには分からないこと、神さまでないと知りようのないことはいくらでもある。
しかし神さまは私たちにとって知ることのできない方ではなく、私たちにもご自身を示してくださいました。神さまは私たちとも出会ってくださった。「それは、彼らの心が神の秘儀であるキリストを深く知るようになるためです。知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠されています。」このように今日の御言葉にあるとおり、神さまが私たちにご自身を啓き示してくださったこと、神が私たちに現してくださったご自身の御心、それはイエス・キリストというお方において私たちに示されました。私たちが神さまについて知るべき事柄は、イエス・キリストの内にすべて、余すところなく、そして私たちにも分かる仕方で示されている。キリストこそ、私たちに示された神の秘儀であり、私たちに与えられた神の宝です。
だから、私たちは神の言葉ご自身でいらっしゃるキリストに耳を傾けて聞きます。キリストこそが神の言葉だからです。知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠されている。キリストに聞きましょう。キリストに心を向けましょう。このお方こそ私たちのための神からの愛のメッセージそのものでいらっしゃるのです。

2026年2月16日月曜日

2026年2月16日の聖句

見よ、わたしは使者を送る。
彼はわが前に道を備える。(マラキ3:1)
その時、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、選ばれた者を四方から呼び集める。(マルコ13:27)

地の果てから天の果てまで、と主イエス・キリストはおっしゃいます。凄いスケールです。地の果ての私たちには遠くても届かない場所から、天の果てという想像も付かないほどの果ての果てに至るまで。主イエス・キリストは私たちを果ての果て、そのまた向こうからも呼び集められる。
思えば、2000年前にこの主イエスさまの言葉を直接聞いた人たちからすれば、私たちがいるこの場所はまさに地の果てのまた向こうであり、今の時代は天の果てのそのまた向こうでしょう。2000年も経って、自分たちが考えたこともないような東の果ての国にもキリストの民が生まれることなど考えもつかなかったと思います。
しかし、神さまにとっては、きっとそれもまた小さな奇跡に違いないと思います。キリストは天使を遣わしてご自分の民を地の果てから天の果てに至るまで呼び集め、一つの教会としてくださいました。私たちもキリストの呼び出す声に促されて、今ここでキリストを仰いで生きているのです。
私たちには途方も付かない神さまの御業を私たちも仰ぎ、このお方を賛美し、このお方の御前で礼拝を献げて生きていきます。キリストに栄光があり、キリストのお名前が地の果てから天の果てに至るまでほめたたえられますように。

2026年2月15日日曜日

2026年2月15日の聖句

今週の聖句:
今、私たちはエルサレムへ上って行く。そして、人の子について預言者が書いたことはみな実現する。(ルカ18:31)

今日の聖句:
(ヨセフの兄たちがヨセフに懇願する言葉)どうか今、あなたの父の神に仕える僕どもの背きの罪を赦してください。(創世記50:17)
互いに親切で憐れみ深い者となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。(エフェソ4:32)

私たちの悩みの多くは人間関係の悩みで、それは究極的には罪の問題であると思います。お互いの間にある罪をどう考え、処理したら良いのか。私たちの抱えている辛い思いの多くは、そこに根ざすのではないでしょうか。相手がしたことが不本意だ、容認できない、赦せない。あるいは逆に、相手に合わせる顔がない、次に会ったときに何といったら良いのか分からない。そうでなければ、どうして相手があれほど怒っているのか理解できない・・・など。
今日の旧約聖書に登場する「ヨセフの兄」たちは、かつてヨセフを殺そうとしました。そのことがきっかけでヨセフは故郷から遠く離れたエジプトで奴隷になり、無実の罪を着せられて何年も牢獄にと孤児込められた。「どうか今、あなたの父の神に仕える僕どもの背きの罪を赦してください」と言っても、ヨセフの立場からしたら到底赦しようがない、ということになると思います。しかし、ヨセフは兄たちと和解しました。自分と兄たちとの間には実は神がおられ、これまでの自分たちの歴史も神が支配しておられる、と信じることができるようになったからです。
「互いに親切で憐れみ深い者となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」このような私たちのあり方は、ただ、キリストを仰ぐことによってだけ可能になるのだと思います。神がキリストにあって私をも赦してくださった。私とも和解してくださった。私たちが憐れみ深い者になることができるとしたら、キリストの愛から以外に始まりうる場所はありません。

2026年2月14日土曜日

2026年2月14日の聖句

ご自身に忠実なる者たちの命を守られる方は、逆らう者たちの手から彼らを助け出してくださる。(詩編97:10)
こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和のうちに築き上げられ、主を畏れて歩み、聖霊に励まされて、信者の数が増えていった。(使徒9:31)

今日の新約の御言葉には「教会は・・・平和のうちに築き上げられ」と書いてあります。しかしこの時の教会の状況を考えると、必ずしもすぐに「平和」と言えるようなものではなかったのではないか、と思います。
このとき、サウロというユダヤ人がいました。彼は非常に熱心なファリサイ派で、キリストの教会を激しく迫害していた。その人がダマスコに向かう途上、不思議な仕方で主イエスと出会い、回心しました。サウロは新しくなった。
しかし、教会にはそんなサウロの言い分を信じられないと思う人も少なくありませんでした。当然だと思います。ついこの前まで自分たちを迫害し、捕らえ、縛りあげて連行した人物です。ステファノという人が殉教したときにもその場に居合わせた人間です。イエスと出会ったと言われても「嘘かもしれない、これは罠だ」と思われても仕方がなかったと思います。教会の中にはサウロを殺そうと狙う人もいました。そういう状況を報告し、続けて今日の御言葉に至るのです。「こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和のうちに築き上げられ、主を畏れて歩み、聖霊に励まされて、信者の数が増えていった。」
教会の平和は、私たちの人間としての仲の良さや気の合う・合わないには依存しません。表面上平和に見えるかどうかが決定的な意味を持つのではない。そういう意味では甚だ不完全な人間集団に、しかし聖霊なる神様が働きかけてくださり、主を畏れて歩み、神の慰めを共に頂くところに平和が生まれるのです。最初の教会は痛みを抱えながらも、そういう神さまの御業に与り、それに生かされました。そんな教会で、やがてサウロも一人の使徒としてキリストに仕え、宣教のために用いられたのです。神さまの御業に開かれ、虚心坦懐に聖霊を待ち望む教会がここにあります。

2026年2月13日金曜日

2026年2月13日の聖句

もし主の声に聞き従わないならば、主の手はあなたがたの先祖を攻めたように、あなたがたをも攻めるだろう。(サムエル上12:15)
あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストにあって歩みなさい。キリストの内に根を下ろし、その基の上に建てられ、教えられたとおり信仰によって強められなさい。(コロサイ2:6~7)

改革者ルターは、私たちの信仰生活に大切な三つのことを挙げました。「祈り」「黙想」「誘惑」の三つです。
祈りと黙想は、よく分かるような気がします。私たちは神さまに向かう存在として造られましたから、神に祈ります。私たち自身に心を向けるのではなくただ神を待ち望む。祈る者として生きる。そして、黙想は、私たちの外から響く神の言葉に耳を傾けることから始まります。自分の内面を探るのではないし、無の境地を目指すのでもない。私たちの黙想は、外から響く神の言葉の黙想、福音の中に沈潜することです。
ところが三つ目の「誘惑」は分かりにくい言葉です。この言葉は「攻撃」と訳すこともできるそうです。誘惑にしても攻撃にしても、誰に誘惑され、攻撃されるのか。神さまです。神さまから攻撃されること、神の誘惑に身をさらすこと。
今日の御言葉ではこのように言っています。「もし主の声に聞き従わないならば、主の手はあなたがたの先祖を攻めたように、あなたがたをも攻めるだろう。」私たち人間の歴史は、まさに、神に従うことなく神からの攻撃を受け続ける歴史であるように思います。大事なのは、それが「神の攻撃である」ということを知ることです。単なる不運ではないし、巡り合わせの悪さではない。今受けているこの苦しみは、神からの攻撃に他ならない。そのことを知るとき、私たちの生き方が変わります。この苦しみにも神の語りかけがあるのです。ここで響く神の言葉の黙想が始まる。その苦しみの中で神を呼び求める祈りが始まる。
これこそ、キリストの内に根を下ろし、キリストという基に立てられ、キリストの教えによって強められる信仰ではないでしょうか。

2026年2月12日木曜日

2026年2月12日の聖句

私はあなたの背きを雲のように
罪を霧のようにかき消した。
私に立ち帰れ。
私があなたを贖ったからだ。(イザヤ44:22)
イエス・キリストは罪を取り除くために現れたのだということ、そして御子の内には罪がないのだということを、あなた方は知っています。(1ヨハネ3:5)

「私に立ち帰れ」と主なる神さまは私たちに呼びかけてくださっています。私に立ち帰れ、私のもとへ戻ってこい、と。神さまの救いの手から離れ、自分の好きなところへ迷いでてしまった私たちに、それでも「帰ってこい」と呼び続けてくださっている。聖書が語る神さまと人間の歴史は、その繰り返しです。
イザヤ書第44章は、ユダヤがバビロン捕囚から解放されていく時期に語られた預言の言葉です。生活が本当にメチャクチャに壊れてしまったバビロン捕囚。そこからの救いが宣言された。私たちは神さまから離れ、神さまを蔑ろにして生きてきた。その結果がこの悲惨だ。「私に立ち帰れ」という神さまの招きに応えよう、私たちを救ってくださる神さまを仰ぎ、このお方を信じよう、と預言者は言います。
それでも、ちっとも神さまの元へ帰ろうとも、悔い改めようともしないのが、いつの時代にも変わらない人間の習性であると思います。「私に立ち帰れ」という神の招きを私たちは無視し続けてきた。しかし、イエス・キリストにあって新しい出来事が起こりました。「イエス・キリストは罪を取り除くために現れた」と書かれています。「私に立ち帰れ」と言ってくださった神さまは、私たちがご自分のもとへ帰るのを座して待つのではなく、こちらまで迎えに来てくださいました。イエス・キリストです。キリストはちっとも悔い改めない私たち、神さまを無視する私たちのところに来てくださいました。神がこちらへ来てくださった。
私たちがどんなに分からず屋で、そのためにどんな悲惨を招き混んでいたとしても、ここにもキリストはいてくださる。キリストが私たちの間に現れた。それが本当のことなのです。

2026年2月11日水曜日

2026年2月11日の聖句

エフライムは、わたしの大切な子、喜びの子なのか。
わたしは彼を責めるたびに、ますます彼のことを思い起こすようになる。
それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき
わたしは彼をあわれまずにはいられない。ー主のことばー(エレミヤ31:20)
神はあらかじめ選ばれたご自身の民を退けたりなさいませんでした。(ローマ11:2)

ここに出てくる「エフライム」というのは、イスラエルの民のことです。神さまに繰り返し背き、軍事力や政治力で生き延びようとしましたが、結局は滅んでいきました。しかし彼をご覧になりながら、主なる神さま言われます。「エフライムは、わたしの大切な子、喜びの子なのか。わたしは彼を責めるたびに、ますます彼のことを思い起こすようになる。」神さまは私たちの背きが招く裁きの現実をご覧になりながら、しかし「お前はわたしの喜びではないのか」と言い続けてくださっています。私たちの悲惨をご覧になりながらはらわたを痛め、身も心も苦しむような呻くような思いで私たちを想ってくださり、私たちを憐れんでくださっている。今日の旧約の御言葉は、私たちを惜しんでくださる神さまの憐れみを語り出しています。
神さまはご自分の民を退けるようなことはなさらない。私たちに惜しむべき価値があるからではない。私たちにもったいないと神に思わせるような隠れた魅力があるからではない。ただご自身の憐れみのゆえに、神は私たちを捨てず、ご自分の選びを貫徹してくださいます。
「エフライムはわたしの大切な子、喜びの子」と言ってくださいます。神さまから喜びを奪い、神さまの「大切」という思いを裏切る私たちになお言ってくださっています。主の憐れみにすがりましょう。そして私たちもまた主イエス・キリストを喜びましょう。

2026年2月10日火曜日

2026年2月10日の聖句

(ヤコブの言葉)私は、あなたが僕に示してくださったすべての慈しみとまことを受けるには足りない者です。(創世記32:11)
(パウロの手紙)しかし、私が憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまず私に限りない寛容をお示しになり、この方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。(1テモテ1:16)

「ありがとう」は漢字では「有り難う」と書きます。「有ることが難い」という字です。よくよく考えると凄い言葉です。相手の好意やしてくれたことは決して当たり前のことではなく、このように有ることが難いこと、本来はないような希有な好意だ、という意味になるのではないかと思います。
今日の御言葉を読んで、この「有り難う」という字を思い出しました。「私は、あなたが僕に示してくださったすべての慈しみとまことを受けるには足りない者です。」私たちは、神さまの慈しみとまこととを受けるに値しない者です。そもそも神さまの前にいる価値のない存在です。ところが神さまは私たちに命を与え、それを保ってくださっている。それどころか、独り子を与えてくださいました。御子を殺した私たちです。神の敵である私たちです。そんな者に慈しみとまことを示してくださった。どんなに言葉を重ねても足りないほどに、文字通りに「有り難い」事実です。
その「有り難い」ことが起きたのは、ただ神の寛容だけによるのではないでしょうか。そして、神の憐れみに満ちた寛容は、私たちもそれに参与するように招きます。「しかし、私が憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまず私に限りない寛容をお示しになり、この方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。」私もキリストにならうようにと招いておられます。
しかし、キリストが示してくださった寛容の欠片も見つからない私です。神の慈しみを受けるに値しない私です。ただただ、主にすがります。主の憐れみと赦しを請う以外には生きる道がないのです。

2026年2月9日月曜日

2026年2月9日の聖句

もしあなたがたの地で、寄留者があなたのもとにとどまっているなら、虐げてはならない。(レビ記19:33)
(イエスの言葉)私の命じることを行うならば、あなたがたは私の友である。(ヨハネ15:14)

主イエスは私たちをご自分の友と呼んでくださいます。主はおっしゃるのです。友はその友の考えていることやしていることを知っているはずだ、と。主イエスが私たちのためにかがみ込んで足を洗い、仕え、愛してくださったこと。私たちのためにご自分の命を捨ててくださったこと。私たちの友であるイエスさまに示された神さまの御心を知り、友としてその歩みを友にする。「私の命じることを行うならば、あなたがたは私の友である。」
今日、特に私たちに友イエスの御心として教えられているのは、このことです。「もしあなたがたの地で、寄留者があなたのもとにとどまっているなら、虐げてはならない。」寄留者というのは外国から来て寄留している人のことですから、現代の言葉で言えば移民や難民ということになります。この人たちを決して虐げてはならない、と友イエスはお命じになる。
こういうところを読むと、私たちは考えるかもしれません。「今から何千年も前の世界と現代社会は違う。出入国管理の制度や社会システムが違うし、今起きているような移民問題や外国人犯罪の問題を古代社会は知らなかったのではないか。」そうでしょうか。レビ記が書かれた時代は今よりもずっと共同体の単位が小さく、一つひとつが閉鎖的でした。寄留者に代表されるよそ者が今よりもずっと目立つ時代です。現代よりも彼ら彼女らに向けられる目ははるかに厳しかったと思います。しかし、友イエスは言われる。「もしあなたがたの地で、寄留者があなたのもとにとどまっているなら、虐げてはならない。」
私たちは現代社会を席巻する「ヘイト」や「分断」の物語を生きてはいません。外国人を排斥することで社会がよくなるという神話を信じません。よそ者がいるから社会が悪くなったという信仰は共有しません。私たちは、私たちのためにキリストが身をかがめて足を洗い、ご自分の命を献げ、私たちを愛し抜いてくださったというキリストの救いの出来事を生きています。私たちは、この世に吹き荒れる憎しみの物語に乗っかるのでしょうか。それとも、私たちの友になってくださったキリストのご命令に生きるのでしょうか。

2026年2月8日日曜日

2026年2月8日の聖句

今週の聖句:
今日、あなたがたが神の声を聞くなら心をかたくなにしてはならない。(ヘブライ3:15)

今日の聖句:
主は、私たちに大きな業を成し遂げてくださった。
私たちは喜んだ。(詩編126:3)
そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に集まり、家ではパンを裂き、喜びと真心をもって食事を共にし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。(使徒2:46~47)

今日新約の御言葉は、最初の教会の歩みを伝えています。毎日集まって礼拝を献げていた。御言葉に耳を傾け、神を礼拝することで教会の歩みが始まりました。「パンを裂き」というのは、聖餐のことです。主が定めてくださった食卓を共に囲んだ。そして、一緒に食事をして喜んだ。そして、教会の歴史はいつの時代でも神を賛美します。思えばコロナの時代も、窓を開け、マスクをしながら歌いました。私たちは神に賛美を捧げ続けました。礼拝によって形づくられる教会の歴史に私たちも連なっています。キリストの教会の営みは、2000年前から今に至るまで、その本質において変わることがありません。主なる神さまを礼拝すること、御言葉に聞き、パンを裂き、食卓の交わりを喜び、神を賛美することです。
「主は、私たちに大きな業を成し遂げてくださった。私たちは喜んだ。」この詩編の御言葉が告白しているとおり、神がしてくださった大いなる御業こそが私たちの礼拝の源泉です。私たちは神を仰ぎ、その御業を崇め、神を礼拝します。今日もその営みに招かれています。キリストを賛美し、キリストのものとして新しい一週間を生きていきましょう。

2026年2月7日土曜日

2026年2月7日の聖句

その主権は増し、平和には終わりがない。(イザヤ書9:6)
キリストは、私たちの平和。(エフェソ2:14)

今日の新約聖書の御言葉は、キリスト教会で実際に起こっていることを話しています。キリストが私たちの平和になってくださった。
そうは言っても、今も昔も、教会は人間の集まりです。しかも、罪人の集まりです。弱い、私たちのような人間が集まってくる場所です。一体どこに平和なんてあるのか。途方に暮れなければならないこともいくらでもあるでしょう。使徒パウロも、エフェソ教会のいろいろな問題に直面していました。ユダヤ人と異邦人、すなわち割礼を受けている人と無割礼の人との間の軋轢。ギリシア人の多くはは知識階級に属し、生活のレベルも非常に高い。そういう人に使われる奴隷階級もいます。いろいろな社会の中にある分断線が教会の中でも意味を持っていました。一体どこに平和があるのか?人間としての努力や心がけではどうにもならない。
キリストは、そんな私たちの間にいて、私たちの平和の絆になってくださいました。キリストが私たちを神と和解させてくださった。キリストがまず私たちを愛してくださった。私たちは世間にある分裂や分断の物語に生きているのではない。自分さえよければ良いとか、自分のことで精一杯という物語には生きていない。キリストが私たちをそういうこの世の物語から解放してくださいました。私たちを愛し、和解の手を伸ばしてくださったキリストの物語に巻き込んでくださいました。そこから平和が始まるのです。
「その主権は増し、平和には終わりがない。」キリストと父なる神の主権にこそ、私たちの平和があります。このお方が主として、王として私たちを和解の物語に生かしてくださるところにこそ私たちの平和がある。ですから、共にキリストを仰ぎましょう。キリストの愛の出来事を待ち望み、祈る群れとして、キリストを礼拝しましょう。

2026年2月6日金曜日

2026年2月6日の聖句

主よ、あなたは正しい方です。しかし、今日このとおり、私たちは、恥辱に直面しています。(ダニエル9:7)
そこで、王は答える。「よく言っておく。この最も小さな者の一人にしなかったのは、すなわち、私にしなかったのである。」(マタイ25:45)

今日の旧約聖書の御言葉に「私たちは、恥辱に直面しています」とあります。なぜ、そのような目に遭っているのか。ダニエル書の前後の文脈を読んでみると、神さまに対する自分たちの背信の罪のため、神さまに逆らって生きてきたための恥辱だ、と言っています。自分たちの生き方が招いた結果だと言います。確かに、私たちの受ける厭なことの多くは、自分のしでかしたことや口から飛び出た言葉、そうでなければ怠けてきたことの結果なのかもしれません。
ところが今日の聖句は私たちに深い驚きを与えます。今日の新約聖書の「王」の姿に託されていた主なる神さまはおっしゃるのです。「この最も小さな者の一人にしなかったのは、すなわち、私にしなかったのである」と。つまり、自分の生き方のために恥を受けるしかない私の現実に、なんと主なる神さまご自身が連帯してくださっている、というのです。
私が「小さな者」に過ぎないのは、自分の生き方のせいです。ところが神さまはそんな私をお見捨てにならなかった。私の小ささをご自身のものとして引き受けてくださった。今日の二つの御言葉は、そのような神さまの憐れみ深いお取り扱いを証言しているように思います。
神さまの正しさを前にして顔を上げることのできないような私です。しかし、主はそんなどうしようもない私に連帯してくださる。主はなんと憐れみ深いお方なのでしょうか。

2026年2月5日木曜日

2026年2月5日の聖句

神よ、私を守ってください。
私はあなたを頼みとしているのです。(詩編16:1)
主は真実な方です。あなたがたを強め、悪しき者から守ってくださいます。(2テサロニケ3:3)

今日の新約聖書の御言葉ですが、直前の2節から、次の4節までを含めて改めて読むとこのように書かれています。
「また、私たちがよこしまな悪人たちから逃れられますように。すべての人に信仰があるわけではないからです。しかし、主は真実な方です。あなたがたを強め、悪しき者から守ってくださいます。そして、私たちが命じることを、あなたがたが現に行っており、これからも行ってくれるものと、私たちは主にあって確信しています。」
このように読んでみると、私たち日本のキリスト者たちが日々経験している状況がここで考えられていることに気付きます。私たちも「すべての人に信仰があるわけではない」社会の中で生きている。そしてそういう社会の中でキリストに従って生きるのは簡単なことではありません。聖書に教えられたとおりに行うことは、私たちにとってはかなり難しいことです。しかし、主なる神さまは、この社会で困難を抱えて生きる私たちを必ず守ってくださる。なぜなら、主は真実な方だから。主の真実を信じてほしい、と聖書は語りかけています。
「神よ、私を守ってください。私はあなたを頼みとしているのです。」このように祈り、主にお従いしたいと願う私たちを、神さまは守ってくださると私たちは信じています。私たちが主に従うよりも実は先に、主ご自身が私たちの味方になってくださっています。私たちにとって、自分の忍耐力や確かさは当てになりません。しかし、主の真実だけは絶対に変わらないし、私たちを裏切ることもありません。主が真実な愛で私をも愛し抜いてくださった。そのことだけを信じましょう。きっと、主に従いたいという私たちの願いをも、主はかなえてくださるに違いないのです。

2026年2月4日水曜日

2026年2月4日の聖句

主に信頼する者は
水辺に植えられた木のように
流れに向かって根を伸ばす。
干ばつの年が来ても心配せず
絶えることなく実を結ぶ。(エレミヤ17:7~8)
(イエスの言葉)私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私つながっているなら、その人は豊かに実を結ぶ。(ヨハネ15:5)

私たちには必ず「干ばつの年」が来ます。どこにも癒やしが見つからず、渇き、求めても満たされないときが。ついつい自分の欲しいものとかしたいことによってそれを満たそうとしてしまいますが、私たちの渇きは主なる神さまに癒やして頂かなくては、満たされることはありません。神は私たちをご自身にかたどって造り、神に向かう存在として創造なさったからです。
私たちはこの方を信頼して良いのです。このお方は必ず私たちにご自身の御顔を向けてくださり、私たちを憐れみ、私たちに命の水をくださるからです。
御言葉こそ、神がくださる命の水です。主はご自分に信頼する者に必ず福音という尽きることのない泉の水を与えてくださいます。私たちはキリストの言葉に癒やされ、満たされ、生きることができる。「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私つながっているなら、その人は豊かに実を結ぶ。」主イエス・キリストの愛というすばらしい樹液によって、私たちは今日も命を与えられている。それは、私たちもまたキリストの愛の実りを結ぶ者になるためです。私たちが出会う多くの人々もまた、キリストの福音に満たされる必要がある。そのための愛の実りを、主は私たちを通して必ず結んでくださいます。

2026年2月3日火曜日

2026年2月3日の聖句

貧しい者を嘲る者は自分の造り主をそしる。
人の災難を喜ぶ者は罰を免れない。(箴言17:5)
神は、世の貧しい人を選んで信仰に富ませ、ご自分を愛する者に約束された御国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。(ヤコブ2:5)

献金は、天国への入場料ではありません。多額の献金をすることが良い信仰者の証し、と聖書は言っていません。却って主イエスさまは貧しくなられました。そして貧しい人のところへ行って、神の国の到来を宣言なさいました。主イエスは僅か二枚のレプトン銅貨を献げたやもめの信仰をご覧になって、褒めてくださったお方です。
もしも私たちの教会がお金持ちを優遇して貧しい人を蔑むとしたら、終わりの日には厳しい神さまの裁きがあるに違いない。「貧しい者を嘲る者は自分の造り主をそしる。」神が与えてくださったものには、神に与えられたものにふさわしい使い方が求められるのだと思います。
献金は、ただただ、神さまへの「ありがとう」のしるしです。主イエスは私たちのために貧しくなられました。主の貧しさが私たちを豊かにしてくださいました。私たちのための神の愛を、主は届けてくださいました。献金は主への感謝であって、見返りを求める投資ではありません。
不思議なことに、神さまは私たちをご自分のものとして選んでくださいました。「神は、世の貧しい人を選んで信仰に富ませ、ご自分を愛する者に約束された御国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。」神の国がただただ神からの恵みのプレゼントであり、私たちのお金や力が勝ち取ることのできる商品ではないことが明らかにされるために、主は敢えて劣った者を選んで、ご自分のものとなさったのです。ですから、へりくだって、私たちもまた神を愛し、隣人を愛したいと願います。

2026年2月2日月曜日

2026年2月2日の聖句

イスラエルの子らが主に叫び求めたとき、主はイスラエルの子らのために一人の救済者を起こして、彼らを救われた。(士師記3:9)
ですから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には、大きな報いがあります。(ヘブライ10:35)

士師記は、カナンの地に定住し始めた神の民にまだ王がいなかった時代の歴史を伝えています。
エジプトを出て荒れ野で過ごしていた頃に民の指導をしていたのはモーセでした。カナンの地に入ってその地を獲得したときにはヨシュアという人が指導者でした。モーセもヨシュアも、主なる神さまに仕え、人々を信仰に導くリーダーでした。ところが、問題は次の世代です。「ヨシュアが生きている間はもとより、ヨシュアよりも長く生きた長老たちが生きている間、民は主に仕えた」(士2:7)。ところが、そのような状況は長続きしませんでした。「その世代の者も皆、先祖の列に加えられると、その後に、主を知らず、主がイスラエルに行われた業も知らない別の世代が起こった。イスラエルの人々は主の目に悪とされることを行い、多くのバアルに仕えた」(士2:10-11)のです。士師記は信仰的に転がり落ちていく民の姿を伝えています。
神さまから離れ、主を礼拝することを蔑ろにしたとき、民は堕落し、国は荒れ、生活はメチャクチャになり、他国に攻め滅ぼされる。そのような負のスパイラルに陥ります。そんなときに民は主に助けを求めて祈りました。都合の良い祈りです。困った時の神頼みです。しかし、主はその祈りに耳を傾けてくださいました。「イスラエルの子らが主に叫び求めたとき、主はイスラエルの子らのために一人の救済者を起こして、彼らを救われた。」こうして主が起こしてくださった救済者は「士師」と呼ばれ、人々を主のもとへ引き戻した。ところが士師が死ぬと再び民は堕落し、不幸になり、また祈り、主はそれを聞いてくださって・・・ということが繰り返された。それが民の歴史でした。
私たち人間のダメな歴史そのものだと思います。しかしなお主は私たちを見捨てず、憐れんで祈りを聞いてくださっている。だから私たちも生かされている。「ですから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には、大きな報いがあります。」この聖書の御言葉を信じ、主を呼び求めましょう。主の憐れみにすがりましょう。ここに救いがある。こんなにダメな、不信仰な私を救ってくださるのはこのお方以外にはいない。そのことを信じ、主を呼び求めましょう。

2026年2月1日日曜日

2026年2月1日の聖句

2月の聖句:
あなたの神、主があなたとその家に与えられたすべての恵みを、あなたと、あなたの中にいる寄留者と共に楽しみなさい。(申命記26:11)

今週の聖句:
あなたの上には主が輝き出で
主の栄光があなたの上に現れる。(イザヤ60:2)

今日の聖句:
お前たちの愛は朝の霧
すぐに消え失せる露のようだ。(ホセア6:4)
(イエスの言葉)私の愛にとどまりなさい。(ヨハネ15:9)

聖書が言うとおりです。「お前たちの愛は朝の霧、すぐに消え失せる露のようだ。」一言もありません。私の愛、神さまに向かう私の愛は朝の霧が日差しの中ですぐに渇いてしまうように、あっという間になくなってしまう。露が消えるように、私の愛も不確かでしかない。そういう自分の情けなさを思うと悲しいですし、自分には信仰などと言えるものは何もないことを告白せねばなりません。
しかしそうであるからこそ、主イエスさまは言ってくださいます。「私の愛に留まりなさい。」私たちが自分の愛を探しても空しいだけです。見つけられません。これが愛です、私はこんなに愛していますと胸を張って神さまに言うことなんてできない。しかし、キリストが私を愛してくださっていることだけは確かです。キリストの愛は絶対です。私たちは、自分の愛の中に神さまを招くのではありません。キリストの愛に迎え入れられているのです。
自分を見つめて絶望するのは、もう止めましょう。キリストに目を向けましょう。キリストの愛のゆえに望みを抱きましょう。私たちを確かに愛してくださるお方がここにおられるのです。

2026年2月19日の聖句

もろもろの民よ、われらの神をたたえ、その栄光をとどろかせよ。 神は私たちの魂を生かし、その足をよろめかすことがない。(詩編66:8~9) 忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ、声をそろえて、私たちの主イエス・キリストの...